歌人斎藤史は、歌集「渉りかゆかむ」で、2.26事件に関連した歌を数首詠んでいる。彼女は、2.26事件関連の歌を生涯にわたり読み続けた人だが、「渉りかゆかむ」の中の「北国」は、特に深い印象を残す。
昭和55年秋70代を迎えた斎藤史は、父の軍人斎藤瀏の任地であった旭川を訪ねた。実に53年ぶりのことである。
彼女は、二度にわたり少女時代を過ごした旭川で、過去を懐かしむ美しい歌を幾つも詠む。
「落日の石狩川は燃えながら少女のわれの中を流れき
夢にいくたび帰りしところうなずきてそのくさむらに踏み入りてゆく」
この旅の時、彼女は層雲峡温泉を訪問した。
層雲峡で、斎藤史は父の属した旧陸軍旭川第七師団に関わる石碑を訪ねる。
その石碑に刻まれた二人の男の名を目にした彼女は、深い感慨に襲われた。
石碑が建てられたのは昭和3年(1928年)。斎藤史が、父の熊本への転勤に伴い旭川を去ったのは前年の昭和2年。その後、彼女は初めて旭川を訪ねたので、この碑を見たのは初めてのことになる。
その間に2.26事件があった。そして、50年を経て、その石碑の前で歌が生まれた。
昭和11年の2.26事件にかかわり青年将校を後押ししたとされ禁固5年の刑を受けた父と、旭川では第七師団長で父の上司だった渡辺錠太郎、後に2.26事件当時は教育総監の地位にあり、青年将校に射殺された渡辺とのことを中心に置いた次の歌である。
「層雲峡を拓きしときの碑を発見す。完成時の第七師団長は渡辺錠太郎。早くより開発の事に関わりし参謀長、斎藤瀏その他を刻めり。
おびただしき年の数すぎて事過ぎて先逝きびとの記念碑に逢う
錆色の楢落葉積む 二・二六に殺されし錠太郎の名ある碑
ゆくすえを誰も知らねば渡辺・斎藤の名もつらねたり一つ碑の面に
人の運命過ぎし思えばいしぶみをめぐるわが身の何か雫す
秋疾風にわかに奔る渓間に身は縒られつつ立てりしばらく」
斎藤史は、父の不名誉な、しかし無実の罪を嘆いていた。さらに彼女は、旭川の北鎮小学校で机を並べていた二人の青年将校が、2.26事件で死刑になったことを、晩年まで忘れずに、2.26事件を継続して歌に詠み続けた。
この歌5首の中に、渡辺錠太郎の名が二度出ている。渡辺錠太郎は、大正から昭和にかけて旭川第七師団長を務めた人で、斎藤史の父劉にとっては上司だった人である。その二人が、東京で起きた2.26事件では全く正反対の立場となり、渡辺錠太郎は斎藤瀏が後押しされたとされる青年将校に射殺された。
その渡辺のことを、斎藤史は40年以上の年月を経て、層雲峡を訪れたときを契機に歌に詠んだのだった。
ところで、教育総監渡辺錠太郎が射殺された東京杉並の自宅では、その現場に当時9歳だった次女渡辺和子さんがいた。旭川で生まれた渡辺和子さんは、生を受けてまもなく父とともに東京へ移り住み、2.26事件と遭遇する。
渡辺さんはその後カトリックの洗礼を受け、修道女として生き抜き、現在81歳で存命である。
9月7日、私は留萌で行われた渡辺和子さんの講演会へ出かけた。2.26事件のことは一切語られなかったが、現代をどのように生きていくかというテーマに、さまざまの示唆を受けて帰ってきた。
この渡辺和子さんのことを調べていると、斎藤史同様、層雲峡にある「石碑」を訪ね、その前で撮られた写真がある。2007年7月、つい一年前のことである。奇しくも、時は違っても、旭川の第七師団で同僚であり、2.26事件で立場を逆にした二人の遺児が同じ場所を訪ねていたのだった。
2008年9月21日、紅葉が始まったという層雲峡・黒岳へ出かけた。もちろん、この二人が訪ねた石碑を見るのも目的だった。
早朝5時発。層雲峡着7時。
黒岳に登る前に、私は、ホテル朝陽亭の先の紅葉谷付近にあるという元陸軍転地療養所、現在は日赤病院となっている場所へ行った。
情報によるとそのあたりに斎藤史、渡辺和子の二人が訪ねた石碑がある。
ホテルを超え、車をその先の紅葉谷の入口へと進めた。あまり大きくはない二階建の白い建物が見つかった。車を降りるとその建物の周辺と紅葉谷入口付近の道を歩いた。
日赤病院は、かなり傷みが激しくどうやら現在は廃屋であり、使われていないらしい。しばらく、周囲を歩いたが石碑らしいものはどうしても見つからない。
ひとり、紅葉谷の林道を歩いている人がいたので、その石碑のことを聞こうとしたが、土地の人ではないという。あきらめるしかないのだろうか。
ひとまず、黒岳へ向かい、始まったばかりの紅葉を楽しんだ。今年は、9月になっても高温状態が続いていたので、あまり期待はしていなかったが、鮮やかな色彩につつまれた山は美しかった。
遠く阿寒の山々が遠い雲上に浮かんでいる。山は天上に限りなく近い。
下山し、温泉で汗を流し、食事をした。
石碑のことがあきらめ切れない。紅葉谷近くのホテル朝陽亭のフロントか、層雲峡ビジターセンターのどちらかで、人に聞くべきだと思った。
とりあえず、近くの層雲峡ビジターセンターへ行った。
受付の中年の女性に
「自然を紹介するビジターセンタには、直接関係ないことかもしれませんが、昔、層雲峡に旧陸軍の旭川第七師団の療養所があり、その跡地に師団長渡辺錠太郎の・・」
と、私が説明し始めると、彼女は私のことばを全部聞かないうちに次のように言う。
「ああ、それなら、私が今朝行って写真を撮ってきました。少し待ってください」
年齢は私と同じくらいだろうか、白髪の混じった女性がコンピューターの前へ行き、A4サイズの紙に印刷を始める。
まさか、と私は思っていたが、彼女は、私が目にしたことのある渡辺和子さんの写真に一緒に写っていた石碑と同じ写真を私に渡してくれた。間違いなかった。
さらに彼女は、朝、私が訪ねた日赤病院の付近の地図を書いてくれる。
「ここへ、何人かの人が訪ねてきて、あなたと同じことを聞いたことがありました。ですから、その石碑のことを知っていましたし、今朝、写真を撮りに行ったのですよ。内容は難しくてわからないですけど」
私と同じような目的で、この層雲峡ビジターセンターを訪ね、あの石碑を探していた人がいた。不思議なことだなと思った。
ひょっとしたら、その中に、ずいぶん前のことになるだろうが、斎藤史さんがいて渡辺和子さんがいた可能性もある。
お礼を彼女に伝えると、すぐに朝に行った道をもう一度、車で行った。朝と同じ紅葉谷の入口に車を止める外へ出た。
ビジターセンタの女性に聞いた、日赤病院の横の草ぼうぼうの位置に、こちらに背を向けた大きな石碑があた。
碑の正式名は次のようなものだった。
「第七師団転地療養所建設記念碑」
つまり、旭川の軍人たちが病いの倒れたときに入るために温泉付きのこの病院を作り、さらには層雲峡周辺の道路建設、開発のために陸軍旭川第七師団が協力したという記念碑だった。
記念碑には、小さな字の漢文体でこの病院と周囲の開発状況が書かれていた。そして、確かに、開発の中心人物だった師団長渡辺錠太郎、参謀長斎藤瀏の名が刻まれていた。
斎藤史が2.26事件に関わった二人の名を刻まれた石碑の前で歌を詠み、2.26事件で目の前で父を失った渡辺和子さんが訪ねた石碑・・・。
二人の女性は、後年、何かの機会に出会ったことはあるのだろうか。私はいまだ、その事実を記した文章は読んだことはない。
50年という時が、人の心を風化させることはなかった。
不思議な巡り合わせで、私もこの石碑を発見することができた。
私は、石碑を見上げながら、柏の葉を揺らす、秋の紅葉谷の風を心と体に受け止めていた。
渡辺和子さん、2007年7月 層雲峡 石碑前にて(旭川北鎮記念館蔵)

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