明治28年(1895年)4月、夏目漱石は松山中学へ英語教師として赴任する。11年後に発表された代表作「坊ちゃん」は、漱石のこの時の松山での教師体験が元になっている。
ところで、学生時代から東京で交友を深めていた正岡子規が、従軍記者として渡っていた中国で病いを得て、松山へ帰郷する。同年8月25日のことである。
最初は松山の叔父の所に滞在していた子規だが、まもなく漱石の下宿へ移ることになり、漱石は二階へ住み、子規は一階に住み、以後10月19日に子規が上京し松山を去るまでの五十日余り、二人は同宿する。
二人が住んだこの下宿を「愚陀佛庵」(ぐだぶつあん)といい、ここで過ごした日々は二人の、特に7年後に34歳で亡くなった子規にとっては、大きな思い出となった。
下宿には、毎晩、子規の友人たちが集まり句会を開き、騒がしいけれど活気ある住まいだった。漱石は、その騒がしさに辟易しながらも、自分も句会に参加した。
子規は
-桔梗活けてしばらく仮の書斎哉
と、詠み、漱石との別れにあたり
-行く我にとどまる汝に秋二つ
を残した。
「秋二つ・・・・」
友と別れる寂しさが滲み出ている句である。
二人は、東京で再会するが、明治33年(1900年)、漱石がイギリスへ留学する年が最後の別れとなった。
最後まで、イギリスと日本と海を隔てて、漱石と子規の書簡は続くが、漱石へ宛てた子規の手紙は明治33年11月6日付。
「僕ハモーダメニナッテシマッタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ。」
と、始まる。西洋への大きな憧れを持った子規は、まもなく命を落とす。漱石の帰国は明治35年(1902年)12月5日。子規が亡くなって2ヶ月に満たない時だった。

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