大人のピアノ教室 表千家茶道教室 大阪府枚方市  原田智子

2008/10/22

壺中日月長&邯鄲の夢  禅語

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『壺中日月長』(こちゅうじつげつながし) 前大徳積応師筆


この句は、中国の古い史書『後漢書』にある伝説に、基づいたものです。


後漢の時代、費長房(ひちょうぼう)という名の役人が、壺公(ここう)という名の薬屋の老人(実は仙人)に誘われるまま、その店の軒先に吊り下げられた、小さな壺の中に入ったところ、中は広々とした仙境であり、そこで十日ほど仙術の修行をして、もとの世界に戻ると、現実の世界ではなんと十数年もたっていた、というのがそのあらすじです。


『壺中』とは別天地や仙境を意味し、禅的には、時間を超越した悟りの境地のたとえとされています。

ところで、唐の時代の小説で、この話と少し似ている、「枕中記」という話があります。

これは、盧生という貧乏な青年が、都での栄達を求めて旅をしていた時、邯鄲(かんたん)という町で、呂翁という仙人から、栄華が意のままになるという枕を借りて寝ると、枕の穴がどんどん大きくなり、その穴の中へ入っていったところ、都で地位、名誉、財産を得て暮らすという 50年にもおよぶ長い夢を見たが、ふと目を覚ますと、それは炊きかけていた粟がまだ煮えないほどの短い間の事だった、というものです。

このことから、『邯鄲の夢』という言葉が生まれ、それは栄枯盛衰がはかないことを表しています。


さて、「邯鄲の夢」においては、夢から覚めて現実に戻ってみると、数十年と思われた時間が、実はほんの一瞬の間のことであったわけで、「壺中」の場合とは逆ですが、いずれも小さな穴が異空間への入り口となり、もとの世界へ戻ってみると、時間が違う速さで進んでいたという点が同じです。

この二つの説話は、物理学で理論的には存在するといわれている、瞬時に異空間へ移動できる「ワームホール」を連想させます。
 
また、人は死ぬ間際に、一生の記憶の全てを走馬灯のように体験するという話を聞いたことがありますが、これまで私が生きてきた52年間を振り返ると、確かに、過ぎ去った時間は、今思えば、ほんの一瞬に凝縮されているように感じられます。

するとなんだか、今生きている、この「現実」と思っている世界が、まるで「邯鄲の夢」の中の世界のような気がしてきます。

現実が夢で、夢が現実・・・。

私たちが生きているこの世界が、実は「壺の中」にあって、壺の外には、全く別の時空が広がっているような・・・そんな不思議な気持ちになってきます。

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2008/10/24  7:44

投稿者:tomoko

沙耶さん、こんにちは。
北海道は、もうずいぶん涼しく(寒く?)なっているのでしょうね。
静内という所、私は行った事はないけれど、地名からして、なんだか心が落ち着く場所のような感じがしますね。

今、ここは、もしかしたら、長い長い夢の中かも・・・という感覚、やはり沙耶さんにもあるんですね・・・。

実は、この「邯鄲の夢」の話なんですが、先日、銀閣に行った時に、一人で入った茶店で、たまたま別のテーブルにすわっていたサラリーマン3人が、ずっと「邯鄲の夢」についてしゃべっていたので、なんだか印象に残っていたのですが、その数日後、たまたま車の中で聞いていたラジオ番組で、「邯鄲」という名のコオロギの仲間の鳴き声を聞いたのです。その時も、一瞬、なんだか夢の中にいるような、不思議な気がしました。

2008/10/23  22:03

投稿者:沙耶

こんにちは。
私は先日3日間、おじいちゃんの家に行ってきました。静内という所で襟裳岬の方にあり、サラブレットの産地でもあります。田舎なのでのんびりとくつろいできました。

この現実が夢で夢が現実、という感覚は私も感じるときが結構あります。現実は時には辛くて悲しい気持ちにもなりますが、一方では全部自分の見ている夢で、現実は他にあるんじゃないかと。不思議な気持ちにたまになります。

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