2009/6/4

アンリ四世  画像歌

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画像文章引用wikipedia

新舊の隙を癒せとみことのり昨日宗旨をひるがへしたる


一昨日開港百五十周年を迎へた横浜を練り歩いてゐる奇抜な蜘蛛ロボットを拵へた技術者集団の所在地が
丁度ナントの勅令のナントでした。

新教徒のアンリがあへて国内多数派たる旧教に改宗してまで両宗教の宥和を図り国内の統一をめざした意図はその後に生かされず、フォンテーヌブロー勅令によつて新教への寛容令が廃されると勤勉で産業の中核たる新教徒が多く国外追放となり、結果として国庫の枯渇を招き、フランス革命の遠因になつたとするが歴史の定説のやうです。


1572年8月18日、アンリは摂政カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、国王シャルル9世の妹でもあるマルグリット・ド・ヴァロワと結婚した。ところが、8月24日、結婚式参列のためパリに集まっていたコリニー提督をはじめ多くのプロテスタント派貴族は、カトリック派のギーズ公アンリの兵によって虐殺されてしまった(サン・バルテルミの虐殺)。惨殺はフランス国内にも広がり、死体がパリ市内の至る所に放置された中で、アンリは宮廷に幽閉されて強制的にカトリックに改宗させられた。

同年、母の急死(カトリーヌ・ド・メディシスによる暗殺の噂がある)によってナバラ王(エンリケ3世)を継承する。1576年、宮廷からの逃走に成功したアンリはプロテスタントに再改宗する。1574年にフランス王位に就いたアンリ3世(在位:1574年 - 1589年)がカトリーヌ・ド・メディシスの摂政退任により親政を開始すると、国内の政局はアンリ3世、ギーズ公アンリ、ナバラ王アンリが鼎立する三アンリの戦いの時代に入った。

1584年、アランソン公フランソワ(アンリ3世の弟)の死に伴い、アンリはフランス王位の継承者となった。1588年12月、アンリ3世はギーズ公とその弟のルイ枢機卿を暗殺した。アンリも身の危険を感じてパリを脱出した。しかし、1589年にアンリ3世もまた熱狂的なドミニコ会士の凶刃に倒れたことでヴァロワ朝は断絶した。

アンリ3世の命によってブルボン家のナバラ王アンリがフランス王位を継承し、アンリ4世となった。しかしスペインの後ろ盾を持つカトリック同盟は、ローマ教皇から破門されていたアンリ4世を認めず、アンリ4世に戦いを挑んだ。アンリ4世はいったんパリを脱出し、同盟に対する勝利を重ねて軍事的優位に立つことに成功。しかし、肝心のパリを陥落できなかった。

ここに至ってアンリは、最愛の女性ガブリエル・デストレの勧めもあって1593年6月25日に「Paris vaut bien une messe」(「パリはミサをささげるに値する都市である」)と宣言、カトリックへの改宗を発表した。これによってなおカトリックが優勢であったフランス国民の広汎な支持を受けることに成功し、1594年2月27日にシャルトル大聖堂で正式に戴冠式を執り行うことができた。さらに1598年4月30日にナントの勅令 を発表した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
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