もう慣れたフカフカのベッドで僕は目を覚ました。時刻は九時半。窓からは日の光が差し込んでおり室内の温度を現在進行形で上昇させている。季節は七月半ば。まだまだ夏はこれからである。背中や額に薄っすらと汗が滲んでいる。シャワーで身体を流してから朝御飯にしようかな・・・。まだ眠い頭でそんな事を思いながら1つ大きな欠伸をする。今日は土曜日。ありがたい週休二日制のおかげでお休みだ。ベッドが柔らかすぎるせいか、少し体が痛い。ベッドのうえに座り込んでググーッと伸びをする。心地良いひと時。普段は疎ましいだけの朝も、休日なら大歓迎だ。っと、そこで僕の隣で寝ていたエントがコホンコホンと二度咳き込んだ。
「ん・・・・」どこか苦しげに唸るエント。身体を丸めて寝ているエントは少し顔をしかめてもう一度咳き込む。心なしか顔も赤い気がする・・・・。僕がエントの額に手を置く。じわりと伝わるエントの幾分高い体温に、僕は溜め息を1つ・・・。
「38度5分」僕が体温計を読み上げる。
「すみません・・・・」グズグズと鼻をすすりながら、エントがすまなそうな表情で言う。風邪で体力が低下したせいか、表情もどこかハツラツとしない・・・・まぁ、風邪なのにハツラツとしている人も少ないだろうけれど・・・・。エントの額の上に乗っかった冷えたタオルは外気温とエントの体温であっという間にぬるくなってしまう。そのタオルを水で再び冷たく冷やしてエントの額に乗せる。エントの表情が一瞬気持ちよさ気に緩むが、再び咳き込んで苦しそうな表情へと戻る。
「どこが痛かったり苦しかったりするのかな・・・?」僕がエントに問う。
「えと、お腹が痛くて、喉が痛くて、頭も少し・・・。あとは気持ちが悪いです・・・御飯は食べられません」エントがまた咳き込んで潤んだ瞳で僕を見る。なんだか愛玩動物然としていて凄く変な気分になってしまうが、今はそんな事は言っていられない。
「服は・・・着替えられるかな」僕がエントの肩に手を置いてみると、案の定、汗で湿っていた。このまま寝てしまうと風邪を悪化させてしまうかもしれない・・・。エントが一人で着替えられないようなら桜か美琴を呼んで着替えを手伝って貰おう。流石に、男の僕じゃ分からない事が多い。
「多分、大丈夫です・・・」エントが言って、少し微笑む。
「あの、着替えるからちょっと向こう向いててください・・」エントがか細い弱った声で言う。僕は素直にエントとは反対側の方を向く。しばらく、衣擦れの音のみが聞こえ・・・・。
「もう、大丈夫です」とエントの声が聞こえる。振り返ると、少しダブダブな感じの水玉模様のパジャマのエントが袖の中から指先だけ出して、その指で布団の膨らんだ所をつついている。
「・・・・エント?」僕が呼びかけるとエントはハッとしたように僕の目を見返してくる。どうやら、相当熱でマイっているらしい・・・。
「寝なさい」僕が言うと、エントがしばらくボーっとしてからコクンと頷いた・・・。
「へぇ、エントさんが風邪ですかぁ・・・・」多田とオセロに興じていた桜が言う。桜の色は黒。多田の色は白だが、オセロのゲームボードの上は真っ黒に染まっている。意外と桜はこう言うゲームが得意なようだ・・・。多田が極端に弱いっていうのもあるだろうけど・・・・。
「それで、どういう感じなんですかぁ?」桜がボードの上に最後に残った白をパチリと黒に変えて言う。多田はというと、まだ何マスか残った空白を見つめては、どうにか自分の駒を置けないか思案しているが、オセロのルール上、自分の持ち駒が板状から無くなったらそこで負けは確定である。
「どうって言われても・・・・んー・・・典型的な風邪だよ」僕の答えに、桜はフムフムと頷く。桜は真っ白なパジャマ姿であり、彼女の傍らに置かれた一人用の小さなテーブルの上にはお茶とお茶菓子が一セット置かれている。
「何飲んでるの・・・?」僕が桜のお茶を見て言う。桜が今度はトランプをシャッフルしながら言う。
「セイロンティーですぅ」と幸せそうな笑みを広げる。
「お兄・・・・悠の馬鹿が生息してるのは死ぬほど気に入らないですけどぉ、ここのお茶は本当に美味しいですぅ」桜が紅茶の匂いをスーっと嗅ぐ。その様子は何処かの令嬢を思わせる。長い藍色がかった黒髪が潮風に揺れる。
「おい、早くババ抜きやろうぜ」多田が無粋にそう言うのを、桜は少し顔をしかめて頷く。
「では、何を賭けますかぁ?」
「・・・・俺、もう賭けるもの無いんだが、もう純粋に遊ぼうぜ?」多田が冷や汗をかいて桜の足元に転がっている金品を指差す。
「ではぁ?あなたがこのゲームに勝ったら私が今まであなたから剥ぎ取ったこの高価な物品の数々を返して差し上げますぅ」
「マジかッ!?」多田がガタンと椅子から立ち上がる。どうやら、先ほどから数回のゲームで賭けをしていたらしい。結果からかんがみるに多田は惨敗のようだが・・・。それでも、多田はどうやらその金品をこのゲームで取り返すつもりらしい。目には熱い炎をボッと滾らせてまるで叫ぶように言う。
「いいぜ、いいぜ、いいぜぇッ!?その条件飲んでやろうじゃねぇかよッ!?」圧倒的に多田に有利な条件なのに、この物言いだ。しかし、桜は満足げに1つ頷く。
「良いでしょう、多田さんのそう言う単純でおバカなところが私は大好きですぅ・・・で、私が勝ちましたら・・・多田さんにはこんな罰ゲームをやっていただきましょうかぁ・・・?」桜の顔に意地悪・・・と言うかもうサディスティックとしか思えない笑顔が広がる。
「・・・・」そして、桜が囁いた。それを聞いた僕たちは青ざめるのであった。
「風邪薬・・・?」美琴がコクンと小首を傾げて言う。船内の住人達はどうやらまだパジャマのようで、美琴も例に漏れずパジャマ姿だ。全身をモコモコした茶褐色の触り心地の良さそうな生地が覆っていて、頭には耳が着いたフードを被っている。どこから見ても着ぐるみだ。そういえば、エントが前に「着ぐるみパジャマが欲しい」だのと言っていた事があったけれど・・・なるほど、これの事か・・・。というかコレは一体なんなんだろう。
「どうしたのかな?ボクなにか変かな?」美琴がワタワタと自分の身体を見つめる。
「んー・・・っと、それは・・」僕が美琴を指差すと、美琴は手を打つ。どうやら僕の視線の意図を理解したらしい。
「あぁ、これはね、熊さんだよ!」美琴が言って手を頭の上に上げる。
「がおー!」鳴かれても・・・。僕がノーリアクションでいると、美琴はつまらなそうに短く溜め息をつくと近くにあった椅子に座り込んだ。ここは美琴の部屋。クリーム色の壁紙に、暖かい光を放つ電球。薄いピンク色のベッドカバーがかけられたベッドに、中央のガラスの丸テーブルの上にはティディーベアなどがおかれている。典型的・・・なのだと思うけれど、どこから見ても女の子の部屋だ。
「それで、どおして風邪薬なのかな?」少しだけ不機嫌になった美琴が問う。
「えぇと・・・エントが風邪引いちゃって」僕が美琴に説明すると、美琴はフムフムと頷いて立ち上がる。
「風邪薬かぁ・・・あったかなぁ・・?」と呟きながら部屋の奥にある戸棚へと向かう。しばらくゴソゴソと戸棚を物色する美琴。
「あー・・・・えっとね」美琴が言って、僕に1つのビンを投げる。
「これさ・・・その、えっととりあえず風邪薬なんだけどね・・・?」美琴が言う。
「へぇ・・・」見た事の無い風邪薬だ。茶色のビンの中には沢山の錠剤が入っていて、丁寧にビンの蓋には年齢別に服用量が書かれている。15歳以上は・・・一回二錠、夕食後だ・・・。
「そのクスリはね、ボクのお父さんが経営してる会社で試作的に作ったお薬なんだけど・・・」と美琴。
「へぇー、凄いね、美琴の家は製薬会社なんだ・・・」僕が言うと、美琴が照れたように笑う。
確かにボクのお父さんは製薬会社の社長さんだ。間違いない。でも、このお薬はちょっと色々問題があって・・・その、なんていうんだろうか・・・うん。問題がある。いや、ボクが服用する分には問題は無いのだけれど・・・・エントちゃんが服用すると多分、問題がある。
だから、そのことについて、やっぱり錬くんには説明しておくべきだと思う・・・。だから言った方が良いんだけれど・・。なんと説明したら良いんだろう・・・。ちょっと色々難しいなぁ・・・・。などと葛藤していると。
「じゃあ、ありがとう!クスリ少し貰うね、また返すから・・!」となんだか会話も終わりな言葉を錬さんが発する。
「あ!そのクスリは実はッ・・・・!」バタン。目の前でドアが閉まる。結局、言えず仕舞だった。いいのかなぁ・・・これで。小首をかしげてボクは思案する。まぁ、いっか。
「さーて、着替えようかなぁ・・・?」言いながら、パジャマの前の所につけられているファスナーを下げるのでした・・・。っと、着替えシーンまでは語らないからね?ヒミツだよー・・・?
「錬・・・さん?」僕が部屋に帰ると、エントはベッドの上で上体だけを起こして座り込んでいた。少し朦朧とした表情をしている。
「エント・・・?大丈夫」僕の問いに、エントは力なくコクリと頷く。近づいていって額に触れると、やはりまだ熱い。
「エント、まだ寝てなきゃダメだよ」僕がエントに言うと、エントは口を開く。
「喉が・・・渇きました」自分の唇を人差し指で示して言う。頷いて、僕がベッドの真横に置かれているコップを手に取り、洗面台に設置された水道から水を一杯入れて持っていく。エントはそれを両手で受け取ると、小さく「ありがとうございます」と言ってコクコクと飲む。全部飲み終えたのか、軽く息を吐き出してボンヤリと中空を見つめる。
「エント、ボーっとしてどうしたの?」僕の問いに、エントがやっぱりハッキリしない顔で、答える。
「分からないです、なんだか全然・・・考えられない感じです・・」良く分からない事をエントが言って小さく「くぁ・・」と欠伸をする。困った事に凄く抱きしめたくなる可愛らしさだけれど、無抵抗な女の子を抱きしめたりしたらたぶん生涯その罪を背負って生きていく事になりそうだから止めておく。
「錬さん・・・えっちぃです」エントが言ってベッドに横になる。
「え、えっちってな、なにが?」
「・・・・顔が」エントが口元まで布団を引き上げて言う。
「か・・顔って・・」
「だって、私のこと凄く見てましたし・・・たまに錬さんそう言うときあるです・・」エントが言って更に布団を引き上げる。鼻まで見えなくなって布団から見えるのはエントの目と頭だけだ。ケホッケホッとエントが咳き込んで目だけで微笑む。
「錬さんにうつしちゃうといけないので・・・・できれば私と同じ部屋に長くいないほうが良いかもです・・・」せっかくの休みにゴメンなさい。とエントが言って、身体を丸める。数分の後に規則正しい寝息が聞こえる。それを聞き届けて僕はエントの部屋から出るのであった。
赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き、突き当りを右へ、そのまま直進し、一つ目の階段を下に下り、緩い曲線を描く廊下を歩き、5ッ目のほかよりも幾分奥の方に設置された白い金属の無骨な扉を開くと・・・。そこには大海原が広がっている。船の甲板から五メートル程下にある作業用の船外通路だ。僕はここが好きだった。確かに足元から水面までは軽々と15メートル程あるし、強い風が吹くと船全体が揺れて足場も僅かに不安定になる。けれどそれで落ちるような事はなかったし、この足場も無骨な鉄筋を組んだだけとは言え頑丈であり、足元を許すに値する強度であった。だから僕は暇なときになるとここに来る。目線を飛ぶカモメを見たり、遥か下の海の中で優雅に泳ぐイルカを見たりする・・・。そう、この島の周りにはイルカが居る。一体、何頭生息してるのかは定かではないが、つい先日この船が沖合いをクルージングしていたときに船の周りを8匹ほどのイルカが群れて泳いでいた。それをエントと見て騒いだのを覚えている。前髪が風になびく。心地が良い・・・。この船外通路ももう少し広ければ良いのだけれど・・・そうすれば椅子を置いてもっとゆっくりできる。午前の暖かい日の光が身体を包み込む。優しい暖かさ。もう直ぐ、この暖かさを疎ましく思う季節になるというのに、僕は暢気に大きな欠伸をした・・・・。ビュワッ!!瞬間。僕の目の前をあらぬ物が降下していった。ドバーンッ!と"それ"は遥か下の海面に着水する。頭の上のほうから「最高ですぅ!まさかホントに行くとは思ってませんでしたぁ・・・きゃは・・・ははははッ!」と明らかに桜の笑い声が聞こえる。その笑い声から推測するに・・・・多田がまたゲームに負けたらしい。・・・・全裸で海に飛び込むって、ホントにやったんだなぁ・・・多田・・。遥か下方で背中だけを水面に突き出してプカプカ浮いている、パッと見た感じ水死体な友人を遠い目で見ながら僕は溜め息をつくのであった。再び強い風が吹き付ける。ぬる暖かい夏の風。1つ大きく息を吸い込み僕は船内へと戻るのであった。
部屋に戻ると意外な人物が居た。
「・・・・璃緒・・さん?」僕がエントの横に座り込んだ金髪ポニーテールの少女が振り返る。今日は私服らしく、赤いTシャツにショートパンツ、ニーソックスといういでたちだ。
「えっとな、その・・・「さん」はつけなくてもいいぞ?」璃緒さんが言う。そう言うことなら・・。と僕は言い直す。
「璃緒は・・・その、何しにきたのかな?」僕の問いに、璃緒が「うむ」と頷くと、足元においてあったハンドバッグから一冊の本を取り出した。
「これをな、エントから借りていたんだが・・・」見ると文庫本らしい。タイトルは・・・・「絶望して首つった」なんてアンチ・ソーシャルな本なんだ・・・・。そう思わずには居られなかったけれど、僕はその本を璃緒から受け取る。表紙の絵は・・・・。中年男性が薄暗い室内で首をつっているものだった・・・。異常に目が迫り出していて凄くキモチワルイ・・・。なんだこれ・・。
「えっと・・確かに受け取ったよ・・」僕が背中に滲んだイヤな汗を意識しないようにしながら、その不気味な文庫本を机の上に伏せて置く。というか、エントこんなの読んでたんだ・・・。スヤスヤと眠る無垢な少女の寝顔を見ながらそんな事を思う。この世の汚れなんて少しも知らないかのような寝顔だ。
「癒されるな・・・」璃緒が呟いて、エントの頬をつつく。フニフニという音が聞こえてきそうなほど弾力のある頬。凄く触り心地が良さそうだ・・・。
「んむぅ・・・」エントが小さく唸って、璃緒の指を右手でキュッと握る。
「うわぁ・・・・ヤバイ、ツボだ・・・」璃緒がエントの頬をムニュッとつまむ。
「はぐぅ・・」エントが微妙な唸り声を上げて少し微笑む・・・が頬を摘まれているためその笑顔も少しゆがんで見える。璃緒がそれを嬉しそうに見つめる。なんだかちょっとだけ璃緒が羨ましい・・・。女の子なら気兼ねなく触れるもんなぁ・・・・。
「触りたいのか?」気付くと璃緒が僕を見ていた。
「えッ!?」思わず声を上げる。心を見透かされたのと、いきなり声をかけられてビックリしたのとが相まって大きな声になってしまった。
「そんなに驚かなくても良いと思うが・・・どうなんだ?触りたいのか?」全てを見透かすような璃緒の目に、少したじろぐ。さ、触りたくないわけじゃない。むしろ触りたい。フニフニしたい・・・。
「素直だな」僕の顔を見て璃緒が言う。
「え?いやッ・・・!?えぇ!?」慌てて取り繕うとするが言葉が出てこない。
「ふふ・・・大丈夫、私は黙っていてあげよう」璃緒が尊大に言うと、エントの顔が弄れるベストポジションをあけてくれる。幸せそうに安眠するエント・・・・おおよそ起きそうにない・・・。僕がソロリソロリと近づく。そして・・・人差し指と親指でエントの頬を触れ・・・・。
「何をしているんですか?あなた達は」冷静な声が背後から降りかかった。
「ッチ、間が悪いぞ剣咲。もう少しで錬が新たな扉を開く所だったのに」優雅な足取りで剣咲が室内に入ってきて硬直した僕を凝視する。
「・・・・私にお構いなくどうぞ続けてください。私は会長を調教して遊びますので」どこから取り出したのか、先っぽが複数に分かれたムチで軽く璃緒の頭をパンパン叩きながら剣咲が言う。
「このッ!!」璃緒が怒りに身を任せて剣咲に殴りかかろうとするが、剣咲はそれをヒョイと避けて、璃緒の頭をパスンとムチで叩く。
「にゃうッ!?」璃緒が咄嗟に頭をかばってうずくまる。それを好機と見たか、剣咲のムチの連打が璃緒を襲う。だがしかしあまり痛くは無いようで、璃緒は手をブンブン振り回しながら「やーめーろぉー!」とか叫んでいる。
なんだかこの人の前だと璃緒が凄く子供っぽい・・・。もう、本能の囁きのような感情は消えており、僕は伸ばしていた腕を引っ込めるのであった。
「璃緒、可愛いですよ。もっと鳴きなさい」剣咲が柔和な笑顔を浮かべながら璃緒の頭をムチで叩く。
「・・・にゃぅぅ・・」すっかり戦意喪失した璃緒はなされるがままになっている・・・。あ、哀れだ・・・。
「ほぅ、風邪・・・ですか」剣咲が腕を組んで、スヤスヤ眠るエントを見下ろす。
「風邪の時はアレです。人肌で暖めるのが一番」なぜか僕を見ながらいう。その顔にはやはり柔和な笑顔が広がっており、感情が一切読めない・・・・読めないからして真面目に言ってるのかはたまた冗談なのかは分からない。驚くべき事に冗談を言うときでさえ声色が変化しない・・・・。
「全く、何を真面目にそんな事を言っているんだ変態め」璃緒が言う。流石に璃緒は剣咲が真面目に言っているのか冗談で言っているのか分かるようだ。
「え?真面目・・・ですか?冗談のつもりだったのですが・・・」分かっていなかった!
「夏風とは災難ですねぇ・・・」相も変わらずスヤスヤと眠るエントを見ながら、剣咲がズズッと緑茶をすする。ちなみに、僕が大切に飲んでいるお気に入りの緑茶だ。部屋を勝手に物色されて勝手に飲まれている。殆ど強盗だ。
「ちなみに、お前はなんで人の部屋で強奪した茶を美味そうに飲んでいるんだ?」璃緒が僕が現在至った思考と同じ事を、剣咲に訊く。
「ふふ、風邪菌にはお茶に含まれるカテキンが有効なのですよ。こういうものは事前に予防すべきなのです」彼は実に正しい事を言ったとでも言うようにコクリコクリと頷く。実際の所、彼は正しい事を言っているのだが・・・・。取っている行動は根底から過ちだ。
「さてさて、そんな私から年長者の知恵みたいなものを差し上げましょう」得意気に剣咲が言う。
「ちなみにお前の年齢は私と同じだがな」と璃緒。剣咲の片手に持たれたムチが尋常じゃないスピードで璃緒の頭を叩く。
「ふぎゃっ!?」かなり凄い声で鳴いて、璃緒が憎々しげに涙を溜めた目で剣咲を見る。
「年長者の知恵を・・・授けましょう」なんだか有無を言わさぬ口調で剣咲が迫る。『結構です』とか断ったらどうなるんだろう・・・・僕も璃緒みたいに思いっきり叩かれるのかなぁ・・・。
「えっと・・・それは、なんでしょうか・・・」僕が恐らく引きつっているであろう笑顔で剣咲に問うと、彼は満足げに微笑んで答えた。
「セロリ湿布です」
「ネギだろ」璃緒が剣咲に指摘。剣咲の表情が微笑んだ状態で固まる。そして、そのままキリキリと首を璃緒の方に向ける、璃緒はというと「しまった」と言った表情で、剣咲の様子を伺っている。そして、剣咲が少し屈んで、璃緒の耳元で何事かを囁いた。瞬間、青ざめる璃緒。可哀想なくらいにカタカタと震えながら、潤んだ瞳で剣咲を見上げ。
「鬼め・・・」その呟きも、何処か狂気を伺わせる剣咲の微笑みの前に尻すぼみに消える。
「さて、そんな古典的な手段に頼っても仕方がありません、風邪を治すには何よりも栄養を取る事、あとは暑いお風呂に入るのも良いでしょう」と剣咲。璃緒は相変わらず剣咲の表情を伺っている。
「お風呂・・・ですか?」僕が問い返す。
「えぇ、確かこの船には大浴場があったはずです・・・」そういえばそんなものがあった気がする。もっぱら、部屋に取り付けられているシャワーだけで済ましてしまっていたのでいまだにその「大浴場」とやらは使っていない。
「でも、風邪のときにお風呂って入らない方が良いんじゃ・・・」という僕の前に、剣咲がさわやかな笑顔で指を一本立てる。
「暑いお風呂で汗を流せば気分も大分、良くなるはずですよ?」確かに言われてみれば一理ある気がする。
「わかりました」と頷く僕。
「さて、会長・・・参りましょうか?」剣咲がムンズと璃緒の首根っこを捕まえてきびすを返す。ズルズルと引き摺られて行く璃緒は、僕の目を見据えて助けを求める。
「れ、錬ッ!た、助けて!こ、この男に殺されるぅぅぅぅ」
「何を馬鹿な事を言っているんですか・・?」
「あぁあぁぁああぁああぁぁあああぁ・・・」バタンッ!とドアが閉まる。ほぼ間髪居れずに。廊下から。
「きゃはッ!ははははははッ!け、剣咲、や、やめッ!くす・・ぐるなぁッ!あぅッ!やぁめぇ・・・やめろッ!きゃははッ!」徐々に遠ざかっていく声。哀れ、璃緒は剣咲にくすぐられながら廊下を引き摺られていった。
エントはまだ目覚めないようでスヤスヤと寝息を立てている。誰も居ない部屋。いつの間にか、午前から午後に変わった空。僕とエントの部屋を午前よりも赤みがかった光で照らす太陽。そういえば・・・・僕、まだ御飯食べてなかったな。時計を見るとすでに三時を示している。・・昼ごはんって言うよりも・・・午後のお茶だな。そんな事を思いながら、スヤスヤ眠るエントの頭を軽く撫でる。きめ細かいエントの髪の毛。ホントは・・・エントの頭は簡単に触っちゃいけないんだけど・・。なんだか、安らかに眠っているエントを見るとそうせずには居られなかった。さてと・・・・。僕は1つ息を吐いて屋外テラスへと向かった。
「まだやってたんだ」僕がテラスでビリヤードに興じる二人を見て言う。どうやら、屋外テラスの床下にはビリヤード台が設置されているようで、ボタン1つで床の一部が開きそこからビリヤード台が迫り出す仕掛けになっているようだ。
「まぁ、今日は多田さんから取れるだけ取る予定でしたからぁ・・・」桜がキューでググッと白い玉を狙う。しかし、桜のキューが手球(白色の持ち球、プレイヤーはコレをキューで打ち、カラーボールと接触させて球を動かす)をはじいたとしても、手球の行く手には壁しかない。
「桜、ルールは何でやってるのかな?」僕の問いに、桜が「ナインボールですぅ」と答える。ナインボールとは的球を順番どおりに(1番から2番3番という具合に)ポケット(ビリヤード台に設置された六箇所の穴)に落としていき、最終的に9番のボールを落としたプレイヤーが勝ちという単純なゲームである。どうやら多田のブレイクショット(固めて置かれたボールを散らすために打つ一打目の強いショットの事)の後らしく、ビリヤード台の上には1番から9番まで全てのボールが転がっている。しかし、今の桜の手球の位置から1番の球を狙うのは厳しそうである。なんといっても、桜の手球の真後ろには3番、8番、6番の球が真横に並んで1番への行く手を塞いでおり、桜が身体の位置を変えたとしても一番を狙うのは不可能に見えるからだ。しかし、桜の目はどう見ても1番のボールを見ては居なかった。見ているのは緑色のフェルトが張られた壁。
「おいおい、桜ぁ?そりゃ無理だぜ?」多田がからかうように言うと、桜がクスリと笑う。それは勝者の笑み。
「多田さん、まだ私に渡せるものが何かあるんですかぁ?」桜がチラリとテラスの中央に置かれている白いテーブルの上を見つめる。その上にはコンモリと多田の所有物と思しきものが・・・。一番下には高価そうな金品が、その上に財布、その上に衣服、その上に漫画雑誌、その上に・・・・ぬいぐるみ・・?だろうか・・・そんな感じで積み重なっている。
「っふ、見くびるなよ・・・・お前に渡すものならまだ腐るほどあるぜッ!」
「そんな堂々と自分の負けを予見した人を僕は初めて見たよ」
「うるせぇッ!このゲームは多分勝てると思うんだッ!そしたら取られた俺のもの全部を返して貰えるんだッ!」と多田が叫ぶ。
「なんか賭けとして成立してないよね?多田が買ったら圧倒的に商品が良いじゃん」という第三者的な僕の物言いに、多田は遠い目をする。
「お前は昔はそんなヤツじゃなかった。だって考えても見ろよ、ワンゲームで取り返せなかったら俺は少なからず破産する」
「ふっふっふぅ?勝てるつもりで居るんですかぁ?」桜が不敵な笑みを浮かべて再びビリヤード台の壁を凝視する。
「こ・れ・で・・・・終わりですぅ!」桜のキューがビュッ!と伸びる。それは手球の中央を見事にショットし、手球は猛スピードで壁へと迫る。勢い良く壁で跳ね返るも、跳ね返った先にはまた壁。しかし、手球はもう一度のバウンドを経てもいまだにスピードはあまり落ちておらず更にもう一度、壁でバウンドして・・・。
「まさか・・・!」多田が呻く。そう、桜の放った手球は三回のバウンドを経て、3番、8番、6番のボールの壁に拒まれていた1番の真後ろに迫っていたのだ。カツンッ!小気味良い音を立てて1番のボールは炸裂する。目の前にあった三つのボールを押しのけて左端のポケットへと落ちる。そして、弾かれた勢いで転がった三つのボールも桜の計算の中で動いていた。3番のボールは2番のボールをポケットに落とし、3番自体も2番と同じポケットへと落ちていく。6番のボールは一度壁でバウンドし、4番のボールと5番のボールを炸裂させ、ストップさせた。4番と5番のボールは互いに数度ぶつかり合いながらも、別々に左右のポケットへと落ちる。そして、いまだに動き回っていた8番のボールがストップしてしまった6番のボールにぶつかり、再び動き出す6番のボール、6番のボールはまっすぐと進み、ポケットへと落ち、6番ボールに当たったことで軌道を変えた8番のボールはポケットギリギリで止まっていた7番のボールをポケットへ、そして8番のボールが9番のボールへと進み、9番のボールを弾く!ようやく勢いを失った8番はゆっくりとポケットへと進み、ゴトンッ!と台の左端の深遠へと落下し、最後に残った9番ボールもまた、1番右端のポケットへと消えるのであった。ビリヤード台の中央ではいまだに桜の手球がシュルシュルと凄まじい横回転を続けている。ワンショット。たったワンショット。まぐれではない計算されたスーパープレイに僕たちは開いた口が塞がらない。桜は得意気にキューに手を絡める。愛しげにキューにほお擦りして呟くのであった。
「さてさてぇ、今度は多田さんから何をいただきましょうかぁ?」意地悪く微笑む桜に、多田が土下座する。
「い、今までのゲーム・・・無かった事にしてください・・・」プライドまでかなぐり捨てた行動に、桜は少々驚いている様子だ。
「ふむぅ・・・そうですねぇ、ただで無かった事にってのは出来ませんけどぉ・・・」桜が言って、意地悪く微笑む。また、良くないことを考えているようだ。
『負け犬』『変態』『生まれてきてゴメンなさい』『大馬鹿者』『家畜』『青汁』ありとあらゆる罵詈雑言の類の単語を上半身に書き綴られた多田が、額に巻かれた『雑☆魚』のハチマキを締めなおして僕を振り返る。明らかに衰弱した表情だ。ちょっとコケて見える多田の頬には『哀れな雄犬』等と書かれていて凄くシュールだ。桜が多田の持ち物を返す代わりに提示した条件とは・・・。
「上半身に恥ずかしーい言葉を書いて船内を一周してくるですぅ、そしたらあそこにおいてある荷物を返して上げますよぅ?」桜が油性マジックを取り出して言う。
「了解しましたぁッ!」多田がほんの一瞬の逡巡もなく上半身裸になる。
「さぁさぁ、なんとでも書くが良いさッ!」
「・・・・お馬鹿さんですねぇ、調子に乗っていられるのは今だけですよぅ?」そんな事を良いながら、桜はスラスラと多田の肩甲骨の辺りに『生涯飛べない男』と書き込む。
多田の船内一周の直前に、僕は桜からビデオカメラを預かった。
「これで多田さんの恥ずかしい旅を一部始終を取ってきてください〜、私が取ってたらただの変態さんになっちゃいますのでぇ」ようするに、僕が変態扱いされるわけだ。とんだとばっちりだ・・・。
「へッ!なんのダメージも受けずに帰ってきてやるぜ、こう見えても精神(こころ)は強いんだぜ!?」多田が自分の『無能』と書かれた胸を『役立たず』とかかれた右手でドンと叩いて言う。
そりゃ無理だった。当然の如く船内には僕たちの身の回りの世話から、船のメンテナンスを行う技師達、調理師、ウェイター等がワンサカと居るわけで、毎回夕御飯のときにテーブルにオカズを運んでくれるメイド服姿の女性や、顔見知りのシェフとも遭遇するわけである。
その都度、多田は冷たい目で見られ、僕は「がんばってね、お疲れ様」となぜか同情の声をかけられる。あの目は僕のことを卑下していなかったと思うから・・・・多分、多田に無理矢理やらされてるとか思われてるんだろうなぁ・・・・多田の船内での地位が急転直下の如く落ちていくのが分かる。
「なぁ、錬・・・・もう、かえらねぇか?一周した事にして・・・・」多田が言う。
「・・・・僕がこうやってビデオカメラで取ってるから無理じゃない?」僕が言うと、多田が拍手を打つ。
「電池が無くなったフリして・・・・な!?」
「僕が桜に殺されちゃうよ。というか、この会話も録画されてるから」
「しまったあああああああああああああッ!!」多田が両膝を付き叫ぶ。丁度、角から現れたメイド服の少女は踵を返してもと着た方へと戻っていった。
「・・・・多田、なるべく早く戻ろうか」僕の提案に黙って頷く多田。
「・・・・随分と疲労しているようですが?」楽しげに言って、桜が僕からビデオカメラを受け取る。
「ふふん〜?」ビデオカメラで撮影されたモノを再生して意地悪げに微笑む桜。
「これは永久保存版ですぅ・・・ふふ、いつかエントちゃんや璃緒にも見せてあげなきゃですねぇ・・・?」と桜が多田に話しかけるが。スッカリ魂が抜けたような状態の多田はただ「・・・うん」と答えただけであった。桜は少しつまらなそうな顔をして・・・。
「まぁ、あそこの荷物は私が多田さんの部屋に返しておいて上げますぅ、さっさとその見苦しい文字を消してくると良いですよぅ」優しいのか厳しいのか分からない事を桜が言って多田の荷物を抱える。
「・・・・何見てるですかぁ?」
「・・・・いや、桜が珍しく優しいなぁと思って」僕の答えに桜が小首をかしげて「うぅん?」と唸る。
「なんでしょう、ちょっと馬鹿にされた気分ですぅ」桜のコメカミがピクリと痙攣するのを見て僕は慌てて多田を大浴場へと連れて行くのであった。
大浴場へ行くついでに、僕は自室へと寄る。多田は一人でフラフラと大浴場へ向かっていった。ひょっとすると迷子になるかもしれないなぁとか思いながらも、エントを大浴場まで連れて行かなければいけないので自業自得な感じの多田はやむを得ず放置する形となった。
部屋に戻るとやはりエントはスヤスヤと眠っていた。先ほどから何度か寝返りしたらしく、きちんとエントの身体の上に乗っかっていた布団はベッドの下に落ち、エントはおへそを出して寝ている。
「んむにゃ・・・・」エントが口をモグモグして身体をククッと更に丸める。恐らく寒いのだろうとは思うけれど・・・。エントの頭の直ぐ横に腰掛けて僕がエントの肩に手を置く。
「エント」朝よりも幾分熱は下がったようだ。
「エント・・・・おきて」僕がエントの肩を数度ゆする。エントの目がうっすらと開く。エントの目はもう朦朧として居ない。
「れん・・・さん?」すこし舌足らずな口調でエントが言う。どうやらまだ眠いらしく、ゴシゴシと目をこすっている。ゆっくりと上体を起こしてから「くぁ・・」と欠伸をする。
「エント、大丈夫?」僕の問いに、エントはちょっとだけ唸ってから答える。
「ちょっとだけ頭が重いです・・」言って、僕の胸元に頭をコツンと当ててくる。
「エ、エント・・!?」僕の戸惑いの声に、エントがくすぐったそうに笑う。
「息が首に掛かってくすぐったいです・・・・」そしてそのまま・・・・。
「すぅ・・・」寝始めた。
「いやいやいやいや、寝ちゃダメだよ?僕エントに用事があって起こしに来たんだからね?」再びエントの肩をゆする。気持ちよさ気に半分ほど口をあけてガクガクと揺れるエントの頭。
「ふぇぇ・・・?なんですかぁ?」再び目覚めたエントが僕を見つめる。
「お風呂に行こう」
「・・・・そ、それは・・・こ、コンヨク・・ですか?」混浴!?
「えっと、どう解釈したらそうなるのか理解できないけど、大丈夫。この船にある大浴場って所に行くだけだから。エントも一日中寝てて体が汗でベタベタで気持ち悪いんじゃないかな?」僕の問いにエントがしばらく「むぅー」と唸って・・・何事かを思案する。そして、不意に微笑んで・・・。
「じゃあ・・・・行きます」
それはそれは、見事な浴場であった。三メートルほどの仕切りの向こうにはエントと桜が居るらしく小さく話し声が聞こえる。いや、そんな事よりも・・・。僕は浴場を見渡す。三つほどある浴槽。1つには花が浮かび、1つには薬草だろうか・・・良い香りのする葉が浮いている。残りの1つは透き通った普通の湯だ。どの湯も41度という丁度良い温度である。浴場の隅にはサウナまで設置されている。
「錬ー!」ザッパアッン!僕の真横に着水して多田が大はしゃぎで僕に水をかける。
「・・・・多田、元気だね」僕が手で作った水鉄砲で応戦しながら多田に言う。
「勿論、元気さッ!うっひょぉ!良い湯だぜぇ!」
『多田さん、うっさいですぅ!』仕切りの向こうの女湯から苦情が来た。
「っちぇ・・・いいじゃねぇかよ・・・遊んでも・・」多田がいじけながらブクブクと水に沈んでいく。ようやく落ち着いてお風呂に入れそうだ・・・。浴槽内にある腰をかけるスペースに座って溜め息を一つ吐く。今日の疲れが滲むように抜けていく。心地が良い・・・。徐々にボーっとしつつある頭に響くように、ガラガラという音がして男湯のドアが開いた。誰だろう・・・この船の乗務員の人かな・・・?そんな事を思いながら、口まで湯に浸かる。湯の中で息を吐き出すと、鼻の目の前でブクブクと湯があわ立つ。それを楽しんでいると・・・。
「あ、あーくん!やっぱりお風呂に居たんだねー!?」
「ぶッ!?」勢い良く吹き出す。一際大きく湯が泡立ち、飛沫が多田に飛び散る。
「・・・きやがったか」さも予想していたかのように、多田が言う。僕が慌てて振り返ればそこには・・・胸元までタオルで隠した紛れもない美琴が・・・・!
「なななななッ!?」僕が二の句を告げないで居ると、僕の直ぐ横に美琴が入ってくる。白いきめ細かい肌。目のやり場に困る。
「えへへー暖かいねー」ふわぁーっと大きな欠伸をして美琴が言う。
「美琴・・・お前は紛らわしいから一人で入れよ・・」多田が冷静に言う。
「えぇー?だってせっかくあーくんが居るんだから、一緒に入りたいもん」美琴がぷぅっと頬を膨らまして言う。
「・・・・ったく」多田がしょうがない・・と諦めた様子でため息を吐く。
「えっと、えっと?え?多田?多田と美琴は良くても僕は良くないよ?えっと、僕出ようか?出たほうが良いよね?」完璧にパニックに陥った僕と、美琴を多田が交互に見て・・・そして、何かに気付いたように表情を変える。
「美琴・・・まさか?お前言って無い?」多田の意味深な問いに、美琴が頷く。
「え?何が?」いまだに状況が把握できていない僕を、多田が見つめて・・・口を開く。
「えぇとな、なんだ。こう言うワケだ」多田が美琴を指差す。
「え?」
「普通の女の子が堂々と男湯に入って来るワケねぇだろうが?」多田が言う。
「えっと、じゃあ美琴は普通じゃないの?」僕の問いに多田が首を振る。
「そっちじゃねぇ・・・もっと根本的なところ・・・」そして一拍の間をあける・・・・僕の頭の中でも答えが出来上がっているが、それはあまりにも突飛すぎる答え・・・・。
「こいつはな、女じゃないんだ」僕の脳内でその答えが纏まるのと多田が口にしたのとは同時であった。
「えぇッ!?」どう見ても女の子にしか見えない外見の美琴を見つめる。
「えへへー、実はボクは男の子なのでしたー」美琴は少し自嘲気味に言う。そして、凄く女の子的な動作で小首をかしげてからしばし何かを考え、ゆっくりと、何を話せば良いか考えながら美琴が口を開く。
「なんていうのかな・・・その、心は女の子なんだ・・・」美琴が言う。
「身体はね・・・錬君と同じでも・・・・心は女の子なんだ・・・」ちょっと寂しそうに彼は言う。
「でもね、その・・・体が男の子な以上、女湯にはいけないでしょ?だから・・・」と美琴は言う。確かに、幾ら外見が女の子だって実際の所は男の子なんだ・・・女湯に行ったら問題だろう・・。そうして、美琴は自分の両手を見つめて少し悲しげな表情を浮かべる。
「普通の人なら・・・おかしいと思うもんね?自分の性別とは別の性別を選びたがるなんて・・・ちょっと普通じゃないよね」と美琴が言う。その表情に僅かに自虐と悲愴が浮かぶ。
「大丈夫、そんなこと・・・ないよ」僕は、美琴に言っていた。ホントは少しおかしいと思う。でも、そんな人が居ても良いんじゃないかな・・・そう言う風に思ったのも嘘じゃない。僕の言葉に、美琴が驚いたように目を見開く。その瞳の中に戸惑いが浮かぶ。
「え、その、だって・・・男の子なのにあんなパジャマ着たり、ドレス着たり・・・変でしょ?」美琴がちょっと焦ったように言う。きっと"彼女"は今まで、自分の性別を否定する事を肯定されなかったんだろう・・・だから、肯定される事に慣れて無い。
「僕は、変じゃないと思う」
「で、でも・・・」美琴が尚も何かを言おうとするのが、美琴の言葉に多田が言葉を重ねる。
「お前はお前だ。他の誰でもないんだ。誰かと比べたって仕方が無いだろう。お前は誰かじゃないんだから」多田が、美琴の目を、珍しく真剣な目で見つめて言う。それは、普段はなかなかお目にかかれない多田がカッコいい瞬間・・。これで、薄っすらと額に油性マジック出書かれた『ピロリ菌』の文字がなければ言う事無いほどカッコ良いんだけどなぁ・・・。美琴の目に少し涙が溜まる。
「えっとね、なんだろ・・・おかしいな・・・ちょっと嬉しくなっちゃったよ・・・錬くん、あーくん・・・・ありがと」ちょっとだけ泣きそうになりながら、それでも美琴は懸命に笑った。涙を隠すためなのか、ザバンとお湯で顔を洗って再び微笑む。その美琴の頭を多田が無言でグリグリと撫でる。せっかくお湯で流した涙がまた美琴の目に浮かぶが、今度はそれを隠そうとせずに美琴はボロボロと泣き始めた・・・。さすがに・・・・コレは気まずいなぁ・・・。多田が裸の胸板に美琴を抱きかかえてあやしているのを見て、このまま自分がいなくなったら大変な事になるんじゃないだろうか・・・とハラハラとする。
「だ・・だってね、私、私・・・いままで人に変じゃないなんていわれたこと無くて・・、ホントはこわ・・怖かった・・・んだよ・・れ・・錬君が・・・変じゃないって・・・う、うぁぁあぁあぁ」泣きながら多田に抱きつく美琴・・・。あれ?目の前でそんな事が繰り広げられているのに、僕の頭はボーっとしてきて・・・・。あ、ちょっとのぼせて来たかも・・。
頭の下に感じるのは暖かくて柔らかいもの・・・。寝心地が良いとは言いがたいけれど、なんだろう心安らぐ感触だ・・・。あれ?なんで僕・・・寝てるんだろう・・・?額の上に、なにか冷たくて心地の良いものが乗っているのが分かる・・。薄っすらと目を開く。僕の部屋の天井・・・と、僕を見下ろすエントの顔。ふと、顔を横に倒す。鼻先が、何かにぶつかる。僕の頭の下にある何かよりも幾分柔らかい・・・何か・・。果物のような、良い香り・・・。僕の頭を額に乗っていたものがゆっくりと撫でる。そして、ようやく覚醒した。
「うわわわわわわわわッ!!??」僕はエントの膝の上から跳ね起きた。
「良かった、ようやく錬さん目を覚ましました」エントがクスリと微笑んで言う。白いワイシャツにショートパンツを穿いたエント。ショートパンツの丈は太股の中程までしかなく、どう考えても僕はエントの"素"の腿に頭を横たえていた事になる。そして、僕がうっかり鼻をうずめてしまったのはエントの下腹部・・・!
「エエエエエッエント!?ぼぼ、僕は!?僕は・・・どうして!?え!?」慌てふためく僕をエントは困ったように見つめてから。
「えっとですね、お風呂でのぼせて倒れちゃった連さんを、多田さんが連れてきてくれたんです・・・それで私が介抱を・・」そして、エントが不意に悲しげな顔をする。
「えっと・・・膝枕・・いやでしたか・・・?」
「えッ!?い、いや・・・断じてそんな事は・・・」口ごもる僕にエントはホッと胸をなでおろす。
「それなら良いんです」とエントが言った所で・・・。
「・・・・ラブラブですねぇ・・・いつからお付き合いしてるんですかぁ?」もうそれはそれはジト目としか良いようが無いくらい、ちょっと怨嗟とか感じちゃうくらいの視線が僕を射抜いていることに気付いた。気付いてしまうとなんで今までこの視線に気付けなかったのか不思議なくらいの視線だ。目力だ。
「・・・えっと、桜?僕たちは付き合って無いけど・・・?」不思議な事に額から汗がブワッと滲み出す。なんだこれ・・。
「へぇぇぇ・・・そうだったんですかぁ?てっきりもうお付き合いして、Z位イッちゃってるモンだと思いましたぁ」
「Zって・・?」
「ABC・・Zですよぅ?」桜がグッと手を握り、握った人差し指と中指の間に親指を突っ込んで言う。
「桜・・?女の子がそんな事しちゃだめだよ?」
「錬さん?人前でイチャイチャしちゃだめですよぅ?殺しますよぅ?」桜が椅子の背を単純な握力で握りつぶしながら言う。
「さ、桜?ホントに錬さんとはそんな関係じゃな・・・・」桜がエントの方を見てニヤリと微笑む。
「ほうほう?じゃあ、エントちゃんは何の下心もなしに錬さんに膝枕したですかぁ?」桜が「んん〜?」とエントの顔を覗き込む。
「べべべべべべッ!別に!別に下心なんてあったかもしれないけど多分無かったと思う・・けど、あったと言えばあったような・・・無かったような・・・でもでも・・・」徐々に小さくなるエントの声に、桜が更に意地悪く微笑む。
「本当は・・・・?錬さんの髪の毛に触りたかっただけのではぁ?」『でもでも、やっぱり下心なんて・・・』と未だに続ける桜に殆どトドメの一言を桜が投げかける。ボフンッ!と音を立ててエントの頭から煙が上がる。
「さ、桜・・・!?な、なにを・・・ばばばばばばば馬鹿な事をぉ!?」顔を真っ赤に染めてエントが言う。腕をブンブンと振って否定の言葉を並べていくが・・・。
「そして・・・・あまつさえ、優しげな自分を錬さんに見せ付けてそのまま篭絡・・・・果てやそのままイチャイチャ、そして今晩は大変なことになるつもりでしたねぇ?」桜がクックックと笑いながら、エントに言葉をかぶせる。なんだか彼女達の議題の的は僕っぽいけど、凄く妙な気分だ・・・。エントー、なにか反論してよー・・気まずいよー・・・。
「そんな、そんな下心無いです・・・」目に涙を溜めたエントが気丈に桜を睨む。
「むぅ!?」まさか、エントに睨まれると思っていなかったのか、桜が怯んだ。
「下心じゃなくて、ただ・・・ただのぼせて辛そうにしてる錬さんに・・・何もしないで居るのは・・・・なんだか嫌だったから・・!」エントが徐々に語調を強くしながら言う。
「だって、だって・・・錬さんは、風邪の私を看病してくれたし・・・それ以外にも、一杯一杯・・優しくしてくれたし・・・」またも弱気な口調に戻りつつあるエントを、桜は苦笑しながら見つめ、唐突に立ち上がった。
「しょうがないですぅ」そして、僕を笑顔で見つめる。
「錬さん・・・?」
「ん?」
「ちょっと寝てろですぅ」側頭部に、桜のハイキックが刺さった。彼女に蹴られた方とは反対側の耳から意識がポーンと外に飛び出し、二転三転・・・。僕は本当の深淵にストンと落ちたのだった。
「さてさてぇ・・・・告白タイムに当事者は今の所必要ないですぅ・・。これは女同士の話ですぅ」桜が、私を見つめて言う。その目は何処か大人びて見え。開け放たれた部屋の窓からは潮の香りのする風が入り込んできていた。その風が私と桜の髪を優しく撫で、白いカーテンを静かに揺らした。窓際にかけられた風鈴がチリンと1つ音を立て、再び室内に静寂が訪れる。桜の瞳が、私の瞳を見据える・・。
そういえば、死神の中には目を見るだけで相手の意図を読み取ってしまう人たちが居ると聞いたことがある。もしかしたら、桜がそうなのかもしれない・・・だとしたら、私の心中は読まれてしまっているのだろう・・・。しかし、桜は私の目から目を逸らし、代わりに窓の外に浮かぶ白い月を見つめた。
「私は・・・」桜が口を開く。
「私は・・・・錬さんが大好きですよぅ」それはとても寂しげに、でも、その言葉を確かめるように・・・味わうように桜が言う。目を閉じて、その言葉を紡ぎ出す。
「でも、その"好き"は・・・私がエントちゃんに感じたり・・・癪ですけど、お兄ちゃんに感じたりする"好き"なんですぅ」桜が「剣咲」のことを「悠」と呼ばずに『お兄ちゃん』と呼ぶ。その呼び名は、桜が素直に彼のことを好いているという事実の裏付けとでも言うように・・・僅かな温かみを持って彼女の口から吐き出された。
「私は、もっと空虚だったと思いますぅ・・・・。他人が好きになれても・・・・。恋は出来ない・・・愛は生まれない・・・そう言う・・・そういうモノだったんですぅ、死神である以上それが望ましかったんですぅ」自分の両手を、ただ無表情に見つめて桜は言った。だが、直ぐにその表情は微笑へと変わる。
「そのはずなのに・・・なんででしょうね?私は失うのが怖いですぅ」桜が自虐的に言ってまたも月に視線を戻す。まるで、私の顔を直視するのが辛いかのように・・・。
「お兄ちゃんがこの学校の護衛部隊へと抜擢され、居なくなったとき・・・私の心に最初に浮かんだのは「どちらでもいい」という非主観的モノでした・・・。それは、私が人を好きになれても人を愛せないからですぅ・・・」桜がチラリと私を見る。
「例えば、そうですねぇ・・・。雑誌で見かけたアーティストが凄く好みだったとしますぅ。ほとんど一目惚れに近い形でその人のファンになりました・・・で、その人が唐突に引退宣言・・・・悲しいですぅ。苦しいですぅ・・・。でも、明日、生きていけますぅ」桜がイタズラっぽく微笑む。
「その人が引退したって、その人の代わりになる人なんて幾らでもいますぅ、代わりなんて探せば五万といますぅ・・・そう言うレベルでの・・・好き。それが死神の私でした・・」桜が瞳に浮かんだ寂しげな色を消すように長く目を閉じる。そして、再びその目を開いたときにはその寂しげな色は消え去っていた。
「でも、エントちゃんが居なくなっちゃったら・・・私は多分・・・明日生きていけません・・・」桜が私に微笑む。自分の胸に、純白の綺麗で小さな手をグッと押し付けて・・・桜が言う。
「エントちゃんが居なくなったら、私は耐えられません、辛くて辛くて悲しくて悲しくて・・・・考えるだけで吐き気がするほど・・・悪寒が走るほど・・・。心の中が空っぽになるなんて、私は体験した事無いですぅ・・・・体験したく・・・無いですぅ。今は・・・死神の桜じゃなくて・・・エントちゃんの友達の桜で居たいんですぅ。昔は明日を失う事はありませんでしたぁ・・・それは大切なモノが無かったからですぅ・・・。でも・・今は、"今"を失うのが怖いんですぅ・・・」桜が弱々しく、呟くように言う。
「だから・・・・私は現状維持ですぅ・・・このままで良いんですぅ・・・このままが良いんですぅ・・・」桜は自分が蹴倒して昏倒している錬さんを優しげに見つめて言う。
「錬さんに抱く・・・エントさんに抱くこの気持ちは・・・・このままで良いんですぅ・・。エントさんは女の子だから・・・この気持ちは変わりません・・でも・・・・錬さんは男の子だから・・・この気持ちは成長しちゃうから・・・」桜が一瞬、切なそうに微笑んで。
「鍵をかけてしまって置きますぅ・・・」そうして、はぁ・・・と息を吐き出す。その吐き出した息が、かすかに震えているのに・・私は気付いていた・・・。だから。
「私は錬さんが好きです」正直に打ち明けた。
「たぶん・・・この好きは・・・私が始めて経験する"好き"なんだと思います・・・・」ゆっくりと私は自分の想いを言葉にする。錬さんに打ち明けてるわけじゃないのに・・・それなのにこんなに胸が苦しい。締め付けられる・・・。でも、それは幸福な苦痛・・。不思議と心地が良い苦痛・・・。
「錬さんが笑ってくれるだけで私は嬉しいです・・・錬さんにもっと笑っていて欲しいです・・・いってしまえば・・・ベタ惚れです」自分でも恥ずかしい言葉・・・・でも、素直に・・・桜には素直に打ち明けたい。桜の顔が、少し寂しげだ・・・それでも・・。
「天使なのに・・・愛してるって意味・・・知りませんでした・・・愛してるって・・・苦しいんです」私の言葉に、桜が苦笑いする。それは、自分がその苦しさを知らない事から来る自嘲の笑みなのか、はたまたあまりにも頼りない私への笑みなのか・・・定かでは無いけれど。私は言葉をつむいだ。
「だから・・・・」そして、桜に微笑む。だから・・・私は・・・。
「だから・・・私は・・・」桜の目を見据えて・・・・嘘も偽りもなく・・・。
「私は・・・桜にもこの気持ちを知って貰いたいです・・・」正直な気持ちだった・・・。どれだけ自分が言っている事が身勝手な事なのか・・・分かっている。もし、桜が錬さんに私と同じ気持ちを抱いてしまったら・・・。私か桜か・・・はたまた別の誰かが錬さんと結ばれる結果を見ることになるだろう・・。そのとき選ばれなかった私は?桜は?私達は・・・?どうしたら良いんだろう?やはり、その疑問は、桜も抱いているようで、戸惑いの表情を浮かべている。だけど、私達は知らなきゃいけない・・・。天使として生まれたから、死神として生まれたから・・。人が持ってる不思議で奥の深い感情を・・・。彼等の感じることを・・・。自分が感じたいと願うことを・・・。愛や恋を・・・知るべきなんだと思う・・・。ううん、そんな論理的なことじゃない・・・。私も桜も・・・今のままじゃダメなんだ・・・。自分の思いに蓋をしたり・・・・自分を誤魔化したりしてちゃダメなんだ・・・。現状維持なんて・・・不可能なんだ・・。進むか戻るか・・・それしかないんだ・・。だから私は言う。桜に言う。戸惑い顔の私の唯一無二の親友に・・・。
「桜・・・一緒に恋しましょうよ」私の言葉に、戸惑い顔の桜の表情も少し緩む。
「・・・恨みっこ無しですぅ?」
「うん、恨みっこなしです・・・私は・・・がんばりますよ・・!」
「当然ですぅ・・我がライバルに不足なしですぅ・・・!」逞しく言う桜と、まだ少し不安を抱えているけど、進む道の決まった私達はしっかりと硬い握手をした。
それは、私達の青春の始まり。あまりにも青臭くて。あまりにも切なくて・・・・。それでいてちょっと笑えてしまう恋の始まり。
私と桜が望んだ・・・一人の男の子とのこれからの物語・・。

0