監督 若松節朗
原作 山崎豊子
脚本 西岡琢也
主演 渡辺 謙 三浦友和 石坂浩二
はじめに
1985年8月12日の夜、お盆前でその日も暑かった。職場で2週間に1回の宿直 勤務があり、午後7時過ぎのテレビのニュースで午後6時00分羽田発、大阪空港行の日本航空ジャンボ機が墜落したとの報道が流れた。乗客・乗員520名が死亡するという大惨事だった。その夜は全てこのニュースで占められた。翌日の午後、群馬県の御巣鷹山の事故現場から、奇蹟的に生存していた少女をヘリコプターで宙づりにして、救助される様子が中継された。後で知ったがあるテレビ局だけの中継だった。
「大地の子」から「沈まぬ太陽」
大阪府堺市にお住みの作家、山崎豊子氏は文芸春秋に連載されていた、中国残留孤児をテーマにした「大地の子」を1991年に終えた。その後NHKでテレビドラマ化がされたが、私は日本のテレビドラマで、この作品が最も印象に残っている。山崎氏は「大地の子」完成後、心を癒すため学生時代からの夢だったアフリカ・ナイロビに旅立った。そこで出逢ったのが、ガイドをした「沈まぬ太陽」の主人公となる恩地元(大地の恩を知り、物事の始めを大切にするという意味を込めた)こと、小倉寛太郎氏(1930―2002)だった。山崎氏は小倉さんが動物の生態やアフリカの歴史など、何を聞いても造詣が深く、元・日航の労組委員長で10年もの間、懲罰人事で海外勤務を転々とさせられたたこと知る。山崎さんは小倉さんを千数百時間に及ぶ取材をし、小説「沈まぬ太陽」全5巻を1999年に完成させた。10年を経て困難な映画化を成し遂げたスタッフのメンバーの労苦を讃えたい。本年の日本映画のベストワンの作品である。
あらすじ
国民航空の労働組合委員長の恩地元(渡辺謙)と副委員長の行天四郎(三浦友和)は、労働条件の向上と「空の安全」を会社に訴え勝利する。それが原因で海外の僻地へ飛ばされる。国会でも取り上げられ、やっと帰国するが会社は行天を懐柔して、第二組合を作り恩地を追いつめる。そんなときジャンボ機墜落事故が発生する。国民航空の再建を総理から三顧の礼により迎え、新会長に赴任したのが関西紡績会長の国見正之(石坂浩二)だった。国見は新設した会長室部長に恩地を抜擢する。しかし政財界の確執により国見は解任され、恩地も再びアフリカへと配転される。
二本の柱
長編小説を3時間22分の映画化に当たっての、シナリオは大変だったに違いない。
小説も映画も、恩地の生き方とジャンボ機墜落事故との、二本の柱によって構成されている。会社は恩地に詫び状を書けば本社に戻すという。書けば会社は喜び、職場の仲間はその裏切りに落胆、悲しむことになるので出来ないという。矜持(きょうじ)、つまり恩地は労働者の誇りが許さないというのである。生前にモデルとなった小倉さんは、苦しい海外の労働や差別に屈しなかったのは、少しばかり権利意識・人権意識が他の人より有ったかも知れませんねと言われた。山崎氏もそこをアフリカの大地で、現在の日本ではなかなか会うことが出来ない、日本人に出逢ったことが創作意欲を高めたのだろう。小倉氏はアフリカ編の1巻・2巻までは、私に関しては95%事実と同じと断言されている。映画に描かれている、恩地こと小倉さんが墜落事故の、直接の事故被害者担当でなかつたと、モデルになった日本航空は反論している。その通りと思う。しかし国見会長のもと被害者の立場に立って、その任務を支えたことは間違いないことであろう。山崎氏は主人公の恩地と共に、国見会長に注がれる視点が暖かいのは、好みの人物なのだろう。短いながらも、交通機関産業労働者の実情をそれとなく、恩地が国見会長に伝える元日の朝、1番機が飛び立つのを見送るシヨットが眩しい。1年中24時間体制で働く航空労働者が、命を運ぶ産業であることを国見会長が理解し、航空機関士の要求である飛行機ごとの整備担当性を、即座に採用することに繋がっていく。この採用により整備の充実と、そのスピードが短縮された。映画は早めにジャンボ機墜落事故を映す。安置された多くの棺が横たわっている。520名の生命が一瞬に消えたことを知る、象徴的なシヨットであると同時に、犠牲者やそれを取り巻く家族や関係者に、それぞれの人生が有ることを伺える大切な場面だ。
小倉寛太郎
小倉さんに初めて出会ったのは、元・大阪全労連三代目議長の福井宥氏(1936−2003)が主宰した、2000年3月の大阪淀屋橋の朝日生命ホールの講演会だった。会場は溢れて270名余の入場希望者を断ったという。小倉さんはスライドをも駆使して、アフリカの魅力と自身の人生の歩みを語られ大きな感動をよんだ。その後に東京大学法学部の同期生でもある、友人の石川元也弁護士の推薦もあり、私の役員をしている旅行会社の(株)センターツーリストが企画する、アフリカガイドを引き受けていただいた。数回のツアーは石川弁護士夫妻も参加されるなど、いずれも定員を超す人気だった。事前の説明会でフイルムは100本が必要と言われていた。アフリカのサファリカーで、数台に便乗してのツアーで、日にち毎に添乗車を代えての、ガイドをして頂くなどの配慮もしていただいた。ツアー参加者は帰国後、それぞれ人生観が変わったという。映画でニューヨークの動物園のシヨットで「この世で一番危険な猛獣」の看板が映るが、視点を変えて動物から見れば人間はまさに獰猛といえる。小倉さんも「流刑の徒」から、定年後サバンナクラブを立ち上げるなど、アフリカの魅力に取り憑かれた一人でしょう。
会社の株式総会に出席していただきご挨拶もいただいた。終了後に懇親会があり、同じテーブルの隣の席に座ることが出来、親しく懇談する事が出来た。
そのとき山崎氏から取材を受けたとき、何度も和江夫人に良く離婚しませんでしたね、と言われて困ったと笑いながら話された。「AERA」09年11月16号で映画を見た和江夫人は友人にこう話したという。「渡辺謙さんが演じる恩地よりも、うちの人のほうが優しかったわ」と。会社主催の小倉さんの講演会も企画し、呼びかけ文やポスターのアピール文も私の担当だった。
小倉さんは無類のヘビースモーカーだった。飛行機の国際線で喫煙席がある便を、良い会社と言われた。2002年10月に肺癌で逝去されたのも、残念ながら分かる気がした。
安全・安心
「沈まぬ太陽」製作委員会は、『飛行機事故による犠牲者の皆様の御冥福とご遺族の方へ哀悼の意を表します。この映画があらゆる交通機関の「安全・安心」促進の一助になることを願います。』とこの作品を位置付けている。私は地方自治体の交通機関で働き、定年までの15年間を安全担当の職務に就いていた。乗客へのサービスとは安全・正確・迅速だが安全を1とすれば、正確・迅速は9・10と位置付けていた。例えばJRの新幹線が1964年10月の開業以来一人の死亡事故が無いことが、正確・迅速と相まっての世界の新幹線の所以であることを強調していた。また事故の再発を防止する意味での原因追求は大切と思っている。忘れてはならないのは事故後の対応である。若い新採者に講習するとき、例えば車で人身事故を起こしたとき、その人に誠意を尽くして救急車を呼ぶなりすれば、余程のことがない限り、職を失うことはない。逃げれば失うことになる。事故よりも逃げたことの方が罪が重いのであることを。映画でそのことを垣間見ることができる。
2005年4月25日JR福知山線脱線事故が起き、107名が逝去された。危険な曲線部にATC(自動列車制御装置)は当然設置すべきもので、私鉄・地下鉄等は半世紀も前に設置済みである。安全よりも利益を優先させた経営者の責任は重いものがある。直後に大阪市内で事故のシンポジュームがあり参加した。そこでノンフィクション作家の柳田邦男氏は、JR西日本の企業体質をヤクザ集団と断言されたが、そこまでいうのは言い過ぎと思った。しかしその後に事故調査委員会に近づき、事故報告書に責任が及ばないよう工作したことが明るみに出て、信頼回復は遠のき、ヤクザ集団であることを自ら立証してしまった。
おわりに
日本航空は11月13日中間決算で1312億という過去最大の最終赤字を発表した。公的資金を投入するなど再建策が論じられているが、その条件に企業年金の減額が入っている。それには退職者9000名、現職15000名の三分の二の賛成が必要である。この10月に私の故郷の、愛媛県松山市の郷土史に纏わる人の自宅を取材した。神奈川県藤沢市の閑静な住宅地にあり、Y氏は86歳で、戦前はゼロ式戦闘機のパイロットだった。戦後の日本航空誕生の翌年から、国際線のパイロットとして定年まで働らかれたという。企業年金は賃金の後払い的性格もあり、さりとて会社再建の条件となれば、Y氏を初め多くの人は複雑な心境だろう。小倉さんがもし生きていてくれたなら、どんな指針を出しただろうかと思った。

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