私は、どちらかと言えば、写真を撮るのも撮られるのも苦手だ。
というのは、昔よく言われていたという「写真を撮られると、魂が取られる。」という言葉に通じる。
その原因として、写真という静止画なのに、その客体の他人の生死を問わず読み取れる表情があることがある。
そのため私はまず、動画において、慣れることを心掛けた。で、次のステップとして、写真に取り組むことが出来、今ではその表情にも慣れることは出来ている。
だから、恐らくは普通一般に、写真を撮り撮られることで感じ得るであろうことは、つい最近になって漸く得て来ているというのが正直なところである。
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そうして慣れて来る前は、本当に怖くて堪らなかった。
表情が読み取れる(ように感じる)ということは、そこに何らかの意識が介在するということ。つまり、若しかすると、その客体本人の意識かも知れない。つまり、写真により、その客体本人の意識を拘束していることも考えられる。
他人がその写真を見るたびに、その客体本人(の意識)は、その写真が撮られた時点での時間において、衆目の憂き目に晒されるわけである。
そうしたことを考えるに、写真を撮るのも、撮られるのも苦手だ。
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でも、今は、写真を見ることで、落ち着きを得られることも多い。
写真として見続けることで、「自分は岩間さんのプライベートなことなど、ほとんど何も知ることが出来ないというのに、何故、“好き”などという感情を抱くのだろう?」という疑問にも、漸く向き合うことが出来たし。
以前、「心の支えとしている」人に告白したとき、要約をすれば「自分は君のことを何も知らないから、好きでも嫌いでもない。」ということを言われて、困惑したことがあるけれど、「実際に、そうなのだろう。」と、今では思うことが出来る。
「岩間さんのことを、大切に出来たら良いのに。」と思いこそすれ、「一体どうすることが、自分にとって岩間さんを大切にすることなのか。」と、様々に考えている過程において、そうしたことは思う。
岩間さんには岩間さんの生活があり、その人としての時間があるのだものな。
他人を好きになるというのは、本当に難しいのだな。

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