九
嘉永二年秋、ちっ居を命ぜられたとき、先生は45歳でした。一度熊本に引きかえし、藩の許可を受けると問題はなかったのですが、一日も早からんことをねがい、そのまま長崎におもむかれたものとおもわれます。
このとき次男は15歳、三男は7歳、兄弟は、布田の竹崎塾にかよいました。横井小楠の高弟竹崎政恒(茶堂)の塾がそれです。妻の順子は、小楠の妻とはきょうだい(姉妹)でした。
夫の事業の失敗から、竹崎夫妻が布田に移り住んだのは、弘化元年(1844年)5月です。それから17年間、布田にとどまりました。
茶堂は月に3回、小楠塾にかよいました。布田から沼山津まで往復40キロ、たいへんな道のりです。布田には、小楠もしばしば足を運びました。ときには塾生6、70人も連れてやってきたと申します。小楠や竹崎夫妻との交わりは、大きなよろこびであったと思われます。
学問に忠実な先生は、小楠について漢学を学びました。自身は塾もひらかず、門下もとりませんでしたが、国学を林藤次に、漢学を小楠、宮部鼎蔵、上野堅吾、下津休也に学ばれました。林を除けば、いずれも先生より年少であります。先生は米を持参し自炊して学ばれたと聞きます。医学については、いくたびか長崎に学び、ことに文久一年(1862年)長崎に精得館が創設されるや、遊学数ヶ月におよんだと伝えられます。先生58歳のときでした。「伝」には、
「彼ハ又屡々四方に漫遊シ、大医鴻儒ヲ訪ヒ、名勝旧跡ヲ索ネ、以テ修養ニ資セリ。一タビハ実ニ二月中旬ヨリ七月下旬ニ亘リ、月ヲ閲スルコト五回、足跡殆ド全国ニ遍ク、其間或ハ親シク佐久間象山ト談シ、或ハ東都ニ滞留シテ、屡々旧師竹内玄同ヲ訪ヒタルコトモアリキ」
とあります。先生が、大阪、江戸まで旅行されたのがいつであるか明らかでありませんが、文久元年のころ長崎遊学を終え、一時帰郷中の正純先生が父の診療を手伝われたことがありますので、あるいはそのころでしょうか。当時の交通事情を思いますと、労苦がしのばれます。
先生の蔵書には、平田篤胤の著書、赤穂義士に関するもの、富嶽を詠んだ詩歌集など、ことに多かったといわれます。篤胤は、その師本居宣長とともに、漢方医として世に立った人であります。先生の蔵書に詩集が多いのは、先生之祖先に和歌をよむ人も多く、先生も詩をよくされ、正直先生に鹿外庵歌集上・下巻があることによっても知られるように、詩歌にこころを寄せられたことによります。
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二人の令息は、先生のすすめで西洋医学を学ばれました。正純先生は横井小楠、奥山静叔、中島恭民(くるめ)、青木周●(周防)につき、ついで長崎に遊学し、ポンペに学ばれました。その後しばらく家にかえり父の業を助けられましたが、文久3年ふたたび長崎におもむき精得館にはいり、ボードウインに学ばれました。肥後藩の留学生となられたのはそのころです。後、長崎病院塾頭にあげられましたが、明治元年二月帰国を命ぜられ、侍医兼西洋医術師範となり、一五〇石を受けられました。時に34歳でした。正直先生は林藤次、奥山静叔、松下元甫(くるめ)、緒方洪庵(大阪)に学び、後、長崎の精得館に学び、兄とともに藩の留学生となり、長崎病院職員にあげられ、しだいに重きを加えられました。
後年、正純先生は小楠の主治医として、晩年小楠が淋疾とよんだ(腎臓および尿路結核であろうといわれます)重症の病に苦しんだときには、随分治療にあたっておられます。
「拙者四年来淋疾相煩居候処昨冬に至り大分つのり、秋堤共療治いたし候へ共勝れ不申、正月初高橋文貞呼び迎ひ同人より外治いたし速に奏効、近辺鉄砲うちにも参候様に相成候」
とは明治元年九月十五日、京都において参与職にあった小楠がアメリカ留学中の二人の甥にあてた手紙の一節であります。

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