忘れじの一句(32)(2008年6月30日掲載)
あじさいの自重保って風の中 庸晃(照夫)
あじさいの花に隠れにゆく小鳥 庸晃(照夫)
JR宝塚線を北へと走ると田園風景が眼に飛び込んでくる。新興都市化へと変貌しようとする新三田駅を過ぎるとあちらやこちらで初夏の風になびく早苗の姿が純粋に私の心へと伝わってくる。そこは相野駅だった。広野駅を出たころより電車の左右は一面の早苗姿であったが、殊にそこに立つ白鷺の静かな構図にはびっくり。何時か見た絵画での雰囲気ではなった。いましがた丹波路快速は宝塚駅を出て25分。こんなところに都会人を癒す風景があったのか。…私たち夫婦は「かさや相野あじさい園」へと行くための送迎バスに乗る。山懐に開けた紫陽花公園。すこしの坂道をゆっくり、その奥へと歩行。入園券には…滴が輝く、紫陽花の郷。…と書かれてある。前日に降った梅雨により花の上には雫が残っていて、梅雨時期の面影をそののままにして私へのプレゼントとなる。6月終わりごろとは言えまだすこし早かったのであろう、咲きかけの蕾がまだ沢山ありこれからであろうことを思わせる。正に紫陽花は静かな華だった。あまりにも静謐で静寂な美麗の華。しばらくの沈黙を保ち私の眼は紫陽花の花の上の置かれていた。そして眼をいたわるように休めた。この瞬間のこの心。それは紫陽花にも伝わったであろうか。やがて風が来て眼を動かしたとき、この紫陽花にも告げることの出来ぬ苦しみを知ることになるのだった。紫陽花にも自重があり、メタボではないのかと思わせるものがある。風の揺れに必死になって耐えている花を見てしまう。人に見てもらい楽しんでもらうために目立って大きくなりヒーローとなるための花の存在は悲しい存在なのかとも。そして花をいたわり癒すように小鳥たちがやってきて隠れる。その小鳥もまたヒーローになれない存在なのかもしれないとも思う。かって私の青春時代を思い出していた。かって心惹かれた伊丹公子の俳句を思い出していたのだ。
ヒーローになれぬ脚組み 風の青年 伊丹公子
牧羊社名句集シリーズ「メキシコ貝」1993年9月発行。句集の帯には「昭和40年初版刊行以来、28年の歳月にたえ、いまここに蘇る幻の名句集」とある。ここには公子の処女句集「メキシコ貝」の全句集が収録されているのだがとりわけ「風の青年」の句の発表された1963年ごろは「青玄」が草城亡きあとで如何に受け継ぎ発展させてゆくかへの注視が俳壇内外からかぶせられている時期でもあった。公子はそれまでの作り始めからの俳句の中で現代語文体での作品収録と言う大変な決断をしているのである。如何にこの句集に賭した思いが深かったかが伺えるものであった。この頃「青玄」は俳句の文体革命に主幹伊丹三樹彦は全神経を傾注していた。「や」「かな」「けり」との決別もあって大きく句の傾向が変化してゆく時期でもある。そして10代20代と言う若者が集まってくる。全盛期には全国に広がり若者が60人ばかりいた。10代20代特集なるものを誌面で繰り広げていて俳壇からは、あまりの凄まじさに羨ましさと妬みまでもの注視を受けていた。これに敢然と立ち向かったのが公子であり、この「風の青年」の句であったと私は今でも思っている。やがては青玄クラブの誕生となり東京、福井、豊岡、京都、宮津、神戸、三木と各地の青年たちによる新人サークルの誕生となってゆく。やがてその熱気はひとつのものとなってゆき全国から若者が京都に集結された。新人サークルの大会であった。昭和43年4月28日のこである。国鉄京都駅前には胸にプラカードをつけた俳句集団が闊歩し、道行く人の眼を驚かせた。「俳句現代派・青玄」。2メートル程もある横断幕に書き込まれた言葉に道行く人は唖然とした。その時私は俳句の大革命だと思った。…この句「風の青年」の発表はこれらの若者が凄まじい行動を起こす5年前のことであり、これらの起爆となった句でもあることを思えば決して忘れてはならないことと思う。

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