灰谷さんと「きりん」
エディターズミュージアムの扉を開けるとすぐ右側の棚に児童詩誌「きりん」が並んでいます。一号から二二〇号まで―。
「いちばんふさわしい場所だから。」そうおっしゃっていた灰谷健次郎さんが送って下さったものです。一冊ずつていねいにビニールにくるんで、自筆の目録を添えて・・・。大切にされていたことが偲ばれます。
日本でいちばん美しい子どもの本を作ろう―
そのような願いが込められて、竹中郁さんや井上靖さんらの手により昭和二十三年に大阪で誕生したのが子どもの詩の雑誌「きりん」です。日本中の教室から詩が送られてきました。
けれど経済的には苦しく、昭和三十七年にはその願いとともに編集者小宮山量平に引き継がれました。
神戸の小学校の”灰谷学級”の文集がはじめて寄せられたのは昭和三十二年のことです。
文集は「きりん」に連載され、やがて「せんせいけらいになれ」という一冊の本になって刊行されました。
その中に私の心をとらえた一篇の詩があります。小学校二年生の男の子が書いた詩です。
びょうきぼくにくれ
先生、しんどいか
しんどかったら
いつでも、びょうきぼくにくれ
ぼくはしんどかってもよい
先生がげんきになったら
ぼくはそれで
むねがす―とする
いじめの問題をはじめ、子どもたちを取り巻くさまざまなつらい出来事が連日報道されています。だから今、たくさんの子どもたちにこの詩を読んでほしい。先生たちにも、そしてお父さんやお母さんたちにも読んでほしい・・・、そう願わずにはいられません。むずかしい議論よりも、どうかこの一篇の詩のぬくもりを感じて下さい・・・と。
「せんせいけらいになれ」のあとがきで小さな詩人たちに灰谷さんはこう語りかけています。
”あなたたちに対しては、教えることより学ぶことの方が多かった。たった一冊の中にある大きな宇宙は、ぼくを力づけ、勇気を奮い立たせ、ぼくの目をしっかり前に向けさせてくれた。”―と。
心に寄り添ってくれる先生がいました。それを支えるお父さんや、お母さんがいました。
あったかい心がつながっていました。だから「きりん」の中で、子どもたちは輝いていたのだと思います。
灰谷さんが大切にされていた「きりん」が並ぶ棚の前で、
”「きりん」よ甦れ!”― 私は心の中でそう叫んでいます。