灰谷さん「青春問答」の手紙―作品創作の苦悩 上田で40通公開
2007年11月5日付 信濃毎日新聞 社会面掲載
「ぼくはぎりぎりです。そのぎりぎりだけをかきました。みていただけませんか」 1973(昭和48)年7月、「兎の眼」の草稿を清書していたころの一節だ。
小学校教師だった灰谷さんは以前から、理論社発行の児童詩誌「きりん」に学級文集などの詩を寄稿。しかし、当時は1年余り前に教師を辞め、沖縄などを放浪していた。
「生きてきたことの傷、文学の上での傷が、いちどに吹き上げてきて、そういう生き方しかできなかったのです」
この手紙をきっかけに「兎の眼」は74年に出版され、灰谷さんは本格的な作家活動へ。
手紙は、その後も届いた。原稿用紙や便せん、和紙などに書かれた文章は、1枚の時もあれば
10枚以上にわたることもあった。
「灰谷さんは壁を相手にキャッチボールをするように、僕に思いをぶつけてくれた」。
手紙を読み返して小宮山さんは振り返る。「人間が成長する過程を青春と呼ぶなら、これは灰谷さんと僕の『青春問答』だと思う」。
「うなるばっかりでなんにもかけないです」(73年9月)
「百冊ほどの児童書を買って読んでみました」
(74年1月)
「過程での創造、この側面をなぜもっと大切にしなかったのか、くやしいです」(74年2月)
やりとりにはこうした苦悩や試行錯誤も率直につづられる。
「子どもに大人が学ぶ」という灰谷さんの児童観をうかがわせる言葉も。
「子どもというものは、どんなに苦労して作品を作っても、いったんできあがるともう執着しません。(中略)ぼくもひそかにそれを見習っています」(74年ごろ)
文面の底には小宮山さんへの信頼がある。
「
いい作品を書きさえすれば、いつでも手を広げて待っていてくださる人がいる、そのことは書き手にとってどんなに心強いか」(74年6月)
もともと小宮山さんの東京の書斎や上田市の仕事場、自宅などにあった手紙を、小宮山さんの長女、荒井きぬ枝さん(59)が少しずつ整理。灰谷さんの一周忌の23日を前に「手紙を読んでもらうことで、灰谷さんの生き方そのものを多くの人に感じてもらえる」と、遺族の了承を得て、公開を決めた。
手紙は、灰谷さんが食堂がんを患ってからも届き続けた。亡くなる二ヶ月前の最後の1通は
「自分の命は自分だけのものでないことはじゅうぶんわきまえているつも(り)なので、可能なことはなんでもやってみる努力はしています」と記している。
17日午後3時からは、小宮山さんが「灰谷さんからの手紙」と題してエディターズミュージアムで講演する。
参加費1200円(高校生以下500円)で定員120名。
申込みはエディターズミュージアム(TEL:0268-25-0826 火曜定休)まで。