小宮山量平 著 「映画(シネマ)は《私の大学》でした」
こぶし書房 2012.7月刊行 2310円
この本は、3年間に渡って雑誌に連載したエッセイを収めたものです。
90歳の父が連載をお引き受けしたと聞いた時は、びっくりもしましたけれど、まだまだ生きようとする父の強い意志を感じ、心ひそかに“うれしい”と思ったものです。
若者達が『私の大学』を持つことの大切さを父は語り続けていました。「知りたいことを自分で学ぶ素晴らしさ」を伝えたいという思いをこのエッセイの題名に重ねたのだと思います。
荒井 きぬ枝
以下はこの本についての各新聞の紹介記事です。
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産経新聞 2012年7月15日付
今年4月、95歳で逝った元理論社社長で編集者の著者が平成18〜21年に綴った映画に関するエッセイ。邦画の興業成績が洋画を抜いたとの報に「卒寿のジイサン」が信州から夫人と上京、「あの1930年代に映画館から映画館へとハシゴをして巡ったなつかしさを再体験」しようと有楽町界隈をうろつくくだりが楽しい。“現役映画青年”の面目躍如だ。
とりわけ、<映画が音を得た歓び><映画が色を得た悲哀>の章は、熱気の中で映画を呼吸した世代ならでは。「日本の映画産業は、巨大な精神的遺産をよみがえらせ、その土台を踏みしめるべきときを迎えている」ーそんな励ましの言葉を遺してくれた。かみしめたい。
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神戸新聞 2012年7月29日付、新潟日報 2012年8月5日付
戦後の児童文学の出版に力を注ぎ、今年4月に95歳で亡くなった著者が2006年から3年間、雑誌にに連載していた映画エッセイ。
戦前のサイレント時代から映画館に通い続けた著者の人生は、まさに映画の隆盛の歴史と重なる。「嘆きの天使」で歌姫を演じたディートリヒの美しさに魂を奪われた青春時代、映画がモノクロからカラーに変わった時に感じた悲哀ー各時代の文化的考察も交えながら縦横無尽にペンを走らせ、読み応えのある一冊となっている。
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信濃毎日新聞 「読書覧」2012年8月12日付
映画への愛情がたっぷりこもったエッセイ集。上田市出身の著者は、出版や編集の仕事に携わってきたが、今年4月に他界した。その激動の95年間は、モノクロ・サイレントに始まる映画の歴史と重なる。2006年から3年間の雑誌連載を収めた。
本書に登場する作品は、チャプリンから山田洋次まで130本を超える。作品の批評にとどまらず、多くの劇場があった戦前の神田・神保町周辺の雰囲気や、フランス映画の主題歌を口ずさんだ思い出など、映画がどう楽しまれ、受け入れられたかを、戦争を挟んだ時代状況を交えて振り返る。
最近の映画に「消耗品のように忘れ去られて行きがち」と警鐘を鳴らす一方、映画が果たす可能性も信じる。
「(映画という)テキストを囲んで縦横に新時代の芸術の創造性をまさぐることこそが、今や半死の状態にある都市砂漠に、新しい活路を切り開く唯一の途だとさえ言うべきでしょう」
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東京新聞 「読む人」覧 2012年9月2日付
小宮山量平『映画は<私の大学>でした』は八十年の映画鑑賞履歴を持つ筋金入りのリベラリストのエッセイ集。著者は、児童文学の老舗理論社を立ち上げ、今江祥智ら多くの作家を育てた編集者。四月十三日に95歳で逝ったが、最晩年の仕事は遊び心あふれた映画への回想録だった。
トーキーの時代の昭和初期から映画館通いを始め、チャプリンや、ルネ・クレールの映画、戦後の日本映画全盛期の名作群から「たそがれ清兵衛」まで、映画を通じて同時代人の意識や欲望がどう形づくられ、また観客として映画をどう愉しんだかがつづられる。浅草電気館
や神田シネマパレスなど昔懐かしの映画館も幻灯のように登場する。
淀川長治や佐藤忠男と同様に独学で知を鍛える<私の大学>として、誰にでも開放されている映画館が選ばれた。映画の持つ創造性や大衆性に未来を託した世代の情熱のありかを示した本だ。