エディターズミュージアム J 村上寿世さんのこと 2012.12.22掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
プランゲ文庫の責任者だった村上寿世さんは「アメリカがとっておいてくれた宝物を今度は日本で大事にしてほしい」としばしば話していたそうです。文庫を持ち帰り、その存在を市民に広く知ってもらうことを夢みていましたが、果たすことなく他界されました。1997年6月、享年68歳でした。折しも文庫の新聞の永久保存・マイクロ化が始まった年でした。
その後、大学の委託で保存作業を担当していた撮影会社ニチマイがその遺志を継ぎ、早稲田大学や占領史研究者に協力を呼びかけ、日本での展示にこぎつけたのです。展示会を行ったのは早稲田大学と立命館大学でした。
この展示会はメリーランド大学の好意ある全面的な支援のもとに、多種多様な形態と内容を伝えられるよう努めたといわれています。
その内容とは、通常の図書、新聞、雑誌はもちろん労組の機関紙、学校新聞、さらには壁新聞や写真、そして個人のはがき通信まで含み、載せられている発言も政治・経済・社会・文化など各分野にわたっています。展示のために選ばれた600点ほどの資料にも、おびただしい検閲指示が残されていました。
削除指令の痕跡のあるゲラから、占領軍は何を抹消しようとしていたか、みてとれるのではないでしょうか。
1998年12月に早稲田で展示会開催。翌年5月に立命館で展示が行われ、シンポジウムが開かれました。
エディターズ・ミュージアムK 村上寿世さんのこと 2013.1.1掲載
ワシントンの北東郊外にあるメリーランド大学は、樹木に囲まれ、夏は緑が美しいとか。図書館に所蔵されているプランゲ文庫の内訳は新聞1万6500タイトル、雑誌1万3000タイトル、図書およびパンフレット8万2000タイトル、ポスター90枚、地図40枚、通信70万ページに達しています。
日本に里帰りしたのはごく一部で、このなかから選ぶということは気の遠くなるような大変な作業だったでしょう。日本に届いた資料は1タイトルずつ鳥の子紙(薄手の上質和紙)に挟まれ、さらに数タイトルまとめて厚手の中性紙に挟まれ、同じく中性紙の箱に入れられていました。これは劣化を少しでも進ませないための仕様で、お金がかかるわけです。膨大な資料の整理、永久保存のための作業がいかに忍耐を要すことかと思いを馳せました。しかし村上寿世さんはその使命を果たそうと精魂を傾けていらしたのです。日本の人たちに向けて資料整理のボランティアを募ったこともあったようです。
そんななかで村上さんの前に現れた女性がいました。児童文学研究者の谷暎子さんです。谷さんは戦後の北海道の児童出版物を研究している過程でプランゲ文庫を知ったと言っています。1990年のことです。すぐに調査を希望してメリーランド大学に行こうとしますが、図書館の改築、続いて始まった永久保存作業のため、実現には至りませんでした。