エディターズ・ミュージアム㊾ 児童詩誌『きりん』 2013.9.21掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
『きりん』は徐々にその名が知られるようになります。発行部数はそれほど多くはありませんでしたが、先生やおかあさん、子どもたちから深い支持を受けるようになっていきました。
灰谷さんは大学を卒業して、神戸市の公立小学校の教師になりました。その教師時代に縁あって『きりん』を売って歩く手伝いをしています。編集をする仲間にも入りながら、学校では児童詩の教育に力をそそぎました。学級文集『くろんぼ』を編んだのもその情熱の表れでしょう。この活動は、教師をやめるまで続けました。
やがて、『くろんぼ』のなかの作品が、『きりん』に掲載されるようになります。「詩のコクバン」というタイトルでどんどん載せられていくのです。これが前述のようにまとめられて『せんせいけらいになれ』として出版され、話題を呼びました。
図書館で児童書の棚から抜き取って読んだとき、のびやかな発想で自由に生きいきと表現している子どもたちに、その巧まざるユーモアの持ち主たちに羨望を覚えたものです。
そんな『きりん』ではありましたが、印刷代の借金がたまって立ちゆかなくなります。昭和37年のことでした。
大阪では出せなくなったとき、この出版社だったら託せると足立巻一さんが懇願したのが、小宮山量平先生の理論社だったのです。小宮山先生はこれを受けて、『きりん』を引き継いでいきます。
エディターズ・ミュージアム㊿ 児童詩誌『きりん』 2013.9.28掲載
『きりん』の発行を引き継いだ小宮山量平先生は「あいさつ」のなかで、「十五年間たゆみない歩みをつづけてきたという事実はおどろくべきことであり、ただごとではない功績だったと思います」「それが、どんなにご苦労の多いしごとであったことか」と温かく労い、「みなさんのこのご苦労を分けもたないではいられない気持が、まるで一つの義務感のように、私の中にうずきつづけてきました」と記します。
「子どものために」とか「××教育のために」など、そんな枠や目的をもたない雑誌であるよう誓い、「今の世の中によくもまあ、こんなにのびのびと、楽しげにやっているものだとあきれられるぐらい」のものをと、意気込みを語っています。
『きりん』の編集を始めた先生は、「くろんぼ学級」から送られてくる「詩のコクバン」に瞠目します。
「詩のコクバン」というのは灰谷さんのコメント付きで学級の黒板に詩を書いていたもので、そのうち学校の玄関の黒板に書くようになりました。学校全体の子どもや先生の目にふれるようになったのです。黒板には「詩の箱」を吊るして誰でも投稿できるようにしていました。灰谷さんは、それをちょっと出世した≠ネどと言って笑わせていました。
「詩のコクバン」には、教師と子どもたちの深い結びつきが生きいきと語られていたのを小宮山先生はみていらしたのです。