エディターズ・ミュージアム61 「椋鳩十の本」2013.12.14掲載
当エディターズ・ミュージアムスタッフの山嵜庸子さんが、地元紙「週刊上田」に『本の森に囲まれて−私の図書館修業時代』と題して連載をしている内容を、ご本人の承諾を得て転載しています。
めぐりあいがあって本をつくることができたと、小宮山量平先生は常々おっしゃっていました。椋さんと先生は、はるか昔の昭和8年にその著作によって出会いがあったと前回書きました。後年、先生は理論社から椋鳩十の児童文学作品30巻余を全集として出版します。
しかし先生はそれで満足してはいませんでした。自分たちの青春を奮い立たせた『山窩調』は胸深く刻みこまれ、熾火のように仕舞われていたのでしょう。だからこそ、ただ児童文学作家の域にとどまらないことを世に顕したいと長い間あたためてきたのです。
あの時にまで遡って作者の主体性につらぬかれた〈椋鳩十の本〉を出しましょうと、椋さんに提案しました。提案せずにはいられなかった先生は椋さんがそれを聞いたときの顔の輝きを忘れることはないだろう≠ニ語っています。この日があるのを期していたように、椋さんは家を訪れた先生に大きな引き出しにぎっしり詰められた旧稿の数々を見せてくれたといいます。
やがて〈椋鳩十の本〉25巻が刊行されます。すると椋さんは本の宣伝を兼ねながら率先して全国行脚に向かうのでした。行く先々で講演をするのです。独特の信州弁まじりのゆっくりした語り口は、聴く人を魅了しました。主催者が車で迎えに行くと、どんな車でも「いい車ですなあ、乗り心地が良いですわ」とニコニコだったとか。
エディターズ・ミュージアム62 「椋鳩十の本」2013.12.21掲載
平成6年11月発行の『信濃教育』に寄せた小宮山先生の文によると、講演会の壇上に立った椋さんは、自分は小説家としてはエドガー・アラン・ポーを敬愛してきたと語り始めたそうです。
―エドガー・アラン・ポーはその頃の同世代の作家たちに、小説家の気まま虫のためか疎まれていました。彼が死んだ時、葬列に加わる作家は誰もいませんでしたが、一人だけ柩の後方からついて来る人がいました。その人こそウォルト・ホイットマンでした。ポーの優れた資質を知っていたからです(内容要約)。
椋さんは言葉を継ぎながら、講演に耳を傾けていた小宮山先生を指さし、幸いなことに私にも一人のホイットマンがいました、と語り涙ぐんだそうです。ホイットマンと言われた先生もまた涙したと記しています。椋さんは、自分を本当に理解し作品を愛してくれる人がいることを心底からうれしく思ったに違いありません。全幅の信頼をおき作品を委ねたのですから。
この〈椋鳩十の本〉25巻の刊行で椋さんの全作品が世に出ました。全集の場合、各巻ごとに月報というのがつきます。〈椋鳩十の本〉の場合、並みの月報とは違った工夫を凝らし、ひたすら読者への謝意を表したいとの先生のお考えから原田泰治さんの絵入りの月報となりました。椋さんの文に原田さんの絵、まさにふるさとです。これは後に『太陽の匂い』として出版されました。