父、小宮山量平の遺志を引き継いで 荒井きぬ枝さん(エディターズミュジアム代表) 長野県革新懇ニュース(日本と信州の明日をひらく県民懇話会発行) 180号 (2014年4月号)掲載 ◆13日がご命日だと思いますが、生前の思い出をお聞かせ下さい。 95歳で亡くなってから、丸2年になります。私は父が31歳のときの子どもで、60年以上ずっと一緒にいたことになります。私は父の仕事が大好きでしたし、ひとりの編集者として大変尊敬もしていました。理論社を創業したのが私の誕生と同年だったので、子どもの本については私がいつも最初の読者でした。
父は家族を上田において、単身赴任で東京にいっていたのですが、夜行列車で帰省した翌朝には、私の枕元にいつも新しい本が置かれていました。でも、良い本だから売れるというわけではないということも子ども心に理解していました。よく隣部屋で母にもうダメかもしれないと話していたことを覚えています。
経営上の厳しさはありましたが、父は仕事に誇りを持っていました。父の編集者としての仕事は単なる机上のものではなく、その時代、時代を編集することだったと私は思っています。時代の求めに応える著者の思いを世の中に伝え、その中で、人と人とを紡いでいく、そういう編集者であったと思っています。
父は生涯、今出すべき本は何かを追求した人でした。
理論社創業時の最初の仕事は「季刊理論」の発刊でした。父はその1冊目に戦後の日本人の心の中に自立的精神が芽生えることを願い、その思いを込めた文章を書いたのですが、ただちにGHQが削除してしまいました。GHQは占領政策をすすめるために、物言わぬ国民をつくろうとしていたので、父の主張は受け入れがたかったわけです。しかし、父はその後も一貫して日本再生のために必要なことは何かを問い続けてきましたから、いつか自らの思いを託した本を出版したいと考えていました。それが「千曲川」に結実することになりました。削除された文章については、中馬清福さんが大変興味を持っておられたのですが、お目にかかる前日、偶然にも父の遺品の中から出てきたものですから、父が「読んで下さい」と言って差し出してくれたに違いないとお話しました。
◆灰谷健次郎さん始め多くの文学者を世に送り出してこられましたが、その点についてはいかがですか? 父はいつも口癖のように、自分が育てたとか、世の中に送り出したわけでないと言っていました。又、自分のことを「めぐりあい論者」だとも言っていました。
めぐりあいの中で出るべき人が世に出たということだと思います。そこに年表がありますが、父の年表は「めぐりあい年表」となっています。たくさんのめぐり合いがあって、たくさんの本が生まれた。その中の一人が灰谷健次郎さんだっということだと思います。
◆中馬さんが「考」で小宮山さんの追悼文を書かれていますがご関係は? 中馬さんとは親交が深く、骨を拾っていただきました。父の遺書には、人に迷惑をかけてはいけない、延命治療はしない、人からいただきものをしてはいけないとありましたので、密やかに送らせてもらいました。それにもかかわらず中馬さんは駆け付けて下さいました。
父が90歳代、櫻井甘精堂の桜井佐七さんが80歳代、中馬さんが70歳代ということで、ほぼ10歳ずつ年齢が違っているので、3人で仲間をつくろうなんていう話もしていました。
中馬さんは、父にとっても長野県にとっても本当に大きな存在だと思います。
◆「千曲川」の続編のお話はあったのでしょうか? 横浜の読者の方から、続編はいつ出すのかと何度も催促をいただきましたし、同様の声はたくさん寄せられていました。ただ、続編となると戦後になるわけで、どうまとめるべきかについては構想中だったのではないでしょうか。とは言え、原稿用紙2枚は書き始めていましたし、副題は「希望」に決まっていました。どうして「希望」を副題にしようとしたのか、不思議に思われるかもしれません。今の時代、絶望の連続ですから、・・・・
しかし、父はいつの時代も前向きで楽天主義者でしたし、多くの方々との出会いの中で種は蒔けた、その種がかならず育っていくという手応えが、父にとっての希望だったのだと思います。遺族として、喪失感はもちろんあるのですが、身内の感情を離れて、悔いのない送り方ができたと思います。
最後の言葉は「ありがとう」でした。枕元に大学ノートをおいて、父の言葉を書き綴ったのですが「(あなたに会えたことが)おもしろかったよ」と繰り返していました。
おそらく父の脳裏にはいろんな方々の顔が浮かんだのではないでしょうか。「ちっともいい世の中にならなかったね」「100歳まで生きられると思っていたよ」という言葉もありましたが、やはり父にとっては良い人生だったと思います。
◆自らも特高に検挙され、戦前の言論弾圧を経験した小宮山さんなら最近の動きをきびしく批判されたと思いますが、荒井さんはいかがですか? 私の思いは父と重なります。今の社会の流れを見ていると。あまりに想像力に欠けているのではないかと危惧しています。表面の動きしか見ずに、その背後にまで思いが至らない。だからマスコミの報道を鵜呑みにしてしまう。教育が想像力を育んでこなかったのではないでしょうか。たとえば戦争の恐ろしさや悲惨さというものに想像力が働かない、炬燵のの中で、まるで劇映画を観るような感覚でアフガンやイラクでの戦争報道を見てしまい、そこで何が起こっているのかということに想いが至っていないのではないでしょうか。
私には3人の男の子の孫がいるのですが、最近の国会の動きを見ていると、この子たちがやがて戦争に駆り出されるのではという危機感を強く持ちます。秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても、改憲の動きにしても、どれも戦争できる国づくりにつながっています。
党派や立場の違いを超えて、危険な動きを押しとどめる世論を大きくしていくことが必要だと思います。
◆今後の抱負をお聞かせ下さい。 このエディターズミュージアムは、父がいたからできた場所です。その遺志をどう引き継ぐべきか、この2年間は考え、悩みました。全国に多くの文学記念館はあるのですが、なかなか維持することは大変です。そんな中で達した結論は、あまり悩まず、父に向き合い、父の言葉を思い出しながら、父に導いてもらおうということでした。父はゴーリキーの自伝的小説に由来する「私の大学」にこだわっていました。理論社を創業してからしばらくして、シリーズ「私の大学」を出版しました。それは、学歴としての大学ではなく、文字とおり学ぶ場としての大学、自立的精神を培う場としての大学だったと思います。
そうした本当の「私の大学」を始めることが父の遺志たと思います。
幸いにも父の出会いの中で、多くの支えて下さる方々がいる、その力をお借りすることにしました。最初の企画として、4月13日に早乙女勝元さんをお招きして、「平和を探して生きる」と題した講演会を開きます。
実は、父は亡くなる1ケ月前に早乙女さんに手紙を出して、「私の大学」を一緒にやりましょうと持ちかけていました。父はかって早乙女さんの全集のパンフレットに「早乙女さん、あなたは日本のゴーリキーです」という一文を寄せています。そんな関係もあり、第一回目は早乙女さんにお願いしました。引き続き多くの方々のご協力も得て、「私の大学」を続けて行きたいとかんがえています。