エディターズ・ミュージアム99 まどみちおさん2014・9.6掲載
手で焼却させられ敗戦直後にまどさんは、書き続けてきた日誌を焼却させられます。その前年19年からの足取りを、年譜でたどってみます。
まどさんはアルー諸島に長く滞在し、空襲を受けました。脚気・胃潰瘍を患い、野戦病院に入院します。
野戦病院と言ってもイメージが浮かびませんが、建物ではなくテントが当たり前だったようです。そういう所では治療も思うにまかせなかったでしょう。その後、マニラへ送られます。退院後はレイテ島への新航路調査隊に加わり出発しますが、危険でレイテ島に近寄れず引き返しています。フィリピン中部の島レイテは太平洋戦争の末期、日米の激戦地でした。マニラとて同様で、空襲を受けています。まどさんは、日誌を書き続けました。
私は地図を広げ、台湾とマニラ、その後移動する南方各地の位置を確認してみました。
前に 昭和20年1月から2月にかけて、まどさんの所属部隊はマニラからサイゴンへ、白衣を着て傷病兵に擬装して移駐。その後、陸路をタイ、マレー半島、シンガポールと移動し、衛生不良のため疥癬にかかって難儀したようです。 8月15日、まどさんはシンガポールで、本土から来た将校が代読する詔勅で敗戦を知りました。その数日後、約3年間苦労して書きとめてきた日誌と愛着のある『植物誌』を、英国軍に接収される前に自らの手で焼却させられたのでした。
エディターズ・ミュージアム100 まどみちおさん2014.9.13掲載
まどさんの戦中日誌の多くは焼却されましたが、残された2冊がありました。それは戦友で輸送指揮班にいた庄司孝のはからいで、運よく寿美夫人の許に届けられたものです。戦中のまどさんはあちこち移動しながら、わずかな時間をみつけてはノートに文字を書き続けました。
ほかに昭和21年の帰還の折、短歌約七百首を秘かに持ち帰っています。捕虜収容所に入った時期に日誌がわりに記したものです。復員の際に検閲を受けることを予想して、ハガキ大の紙4枚の表裏を使って細字で書き込み、それを布でくるんで表紙とし、白紙のノートの体裁として持ち帰ったものでした。
小さな紙の表裏に記された七百首の短歌。思い描くと字の細かさもさぞかしと、まどさんの切迫した気持ちが思われます。「書くことは自分自身に帰るための方法」などと言われますが、まどさんの軍隊生活における書く行為は、まさにそれだったに違いありません。
従軍中に日誌のたぐいを書いた人は少なくありません。そのいくつかは幸いにも家族の許に届き、出版されたものもありますが、多くは戦地で没収され、生きて帰った場合も焼却させられました。まどさんもその運命を知っていたはずで、書くことが無意味に思えることもあったでしょう。しかし自分の生涯を空白にはしたくないという気持ちから、書かずにはいられなかったのではないでしょうか。