敗戦後、上田に帰った父は、駅前の一隅で「千曲文化クラブ」を始めました。
戦後の生き方をさぐる若者たちに、まずたくさんの本を読ませたい。自ら学ぶことの喜びを知って欲しい・・・・・、父は自らの蔵書に番号をふって、文化クラブの棚に並べたのです。
1200冊ほどの本。今その棚がこのミュージアムに甦っています。
やがて上京し、理論社をおこした父は、「千曲文化クラブ」を継承する形で、《私の大学》シリーズの刊行に着手します。
巻頭にかかげた言葉は、
学ぶとは 誠実を 胸にきざむこと
教えるとは ともに 希望を語ること
ルイ・アラゴン
「私はお前をえた」の最後で私に語りかけた言葉どおりに、父は多くの若者たちと向き合おうとしたのです。
「私の大学通信」(1956年7月)からの父の言葉です。
2015.2.15 荒井 きぬ枝
<ミュージアムに甦った「千曲文化クラブ」の蔵書>
「私の大学」発刊にあたって
小宮山 量平
私は少年時代に、上級の学校へゆくことができず、さびしい思いをした体験をもっています。
十三歳の年から、働きながら勉強しましたが、
人間としての大切な成長期に思うような勉強ができない苦しみは、身にしみて味わいました。しかし、そのために、苦しみながら学ぶことの喜びを、にぎりしめることもできました。
私は、今日の日本で、大変多くの若ものが、あけてもくれても受験勉強をして、上級学校へゆこうとしている姿を不幸なことだと思い、また、国家のためにもったいないことのような気がしております。
そんな年ごろに「社会」という生きた学校へ投げだされた方が、ある意味でしあわせだったとも考えます。しかし残念なことには、日本の「社会」という学校の中には、成長期の若ものを心から愛しそだてる教育の体系がありません。
むろん、世の中に本はたくさんあります。欲しくなれば、どれを食べてもいいわけです。しかし、基礎教養を欠いた弱い判断力で好きなものだけを読むことは、偏食になり、長い間には人間を不具にするものです。
あの受験勉強に追いまくられている痛ましい姿から解放されて、社会という青空の教室に学ぶ人びとに、簡潔で分かりやすい基礎教養の体系を送りどどけることができたら、どんなに良いだろう・・・・・そう思うことが、出版をはじめてからの私の夢でした。
こんど、諸先生のお力ぞえで、この夢の第一歩を実現できるようになったことは、私にとって、心からの感激です。
とくに私がよろこんでいるのは、この講座が、むしろ今日の大学教育の課程よりも、進んだ問題や第一線の成果を大たんにとりあげ、やさしく消化していることです。熱心な学生を相手にしたとき、教師もまた熱心になるように、「私の大学」にはほんとうに緊張した新しい学風が、みちみちているはずです。
ねばり強く計画的に勉強しましょう。
<「私の大学」シリーズ刊行の折のパンフレット>