2015/7/29
1971年に刊行された、おおえひでさんの「八月がくるたびに」。 この季節が巡ってくると、私はきまってこの本を開きます。 長崎で被爆した少女の名前は“きぬえ”です。そのせいか、この本が特別気になるのです。 表紙と挿絵、そして原爆をイメージした何ページにもわたる見開きの絵は、画家の篠原勝之さんが描いています。 原爆の恐ろしさを子どもたちに伝えたい・・・・・。画家は原爆への怒りをその絵に込めて子どもたちと向き合おうとしています。 「こんな気持ちの悪い絵を見せられて、日本の児童の不幸を感じ、一筆しました」。そう書かれた一読者からのハガキが残されています。けれど、子どもたちからはたくさんの感想文が寄せられました。 そのひとつです。 (前略) なんだかこの本が、みんなの心から消えていきそうな、あのおそろしい戦争の
ことを、よみがえらせたみたい。 ページをめくりながら、なんとも無残な死がいを見て「はっ」とした。 この平和な日本にも、むかしはこんなおそろしいことがあったんだなあ。
と思って。でも、この本にはかいてなかったけど、なぜ戦争なんておこったん
だろう。血をながし合っていくなんて、なんてくだらないことだろう。 私は、この「きぬ」という子がかわいそうでならない。 それだけじゃない。戦争で死んだ人が、何万人ているんだもん。私は戦争の
本を読んだのは、これが初めてだ。でも、よくわかったことは、戦争が、なに
よりもおそろしいということなんだ。 (五年生) 作家と画家がこの本に込めた思いを、子どもたちはしっかり受け止めているんですね。 2015.7.29 荒井 きぬ枝
《どうわの本棚》編集部から───先生と両親へのことわり書き 『八月がくるたびに』解説に代えて 小宮山量平 (前略) まず、幼い人たちに、原ばくの話をすること自体の良し悪しが、問いつめられる状況があります。 それは、むごたらしいではないか、という声がきこえます。すでに、日本の初等・中等の教科書などから、 原ばくにかんする記述は、どんどん削られ、ほんの一、二行の事実指摘が残るだけになりつつあります。 だれが、どうして、そのような規制をしているかは知りませんが、「こどもたちに、そんなむごたらしいことを、いまさら知らせることはあるまい」という温情のよそおいは、世の一般家庭の通念にまで固定しかけているのではないでしょうか? こういう状況の中で、この作品を刊行する立場に立たされた者としては、この厚い通念の壁の前で、やはり、ためらいを覚えないわけにはまいりませんでした。このためらいを克服させてくれたのは、もとより、この作品の文学的なりっぱさです。 それがあるが故に、私たちは、安心して、通念への挑戦を決心することができました。 むしろ、このような作品を得たことによって、日本の子どもたちは、こどものうちから、こどもの目で、原ばく問題に真剣なまなざしをそそぐことが可能になった───と、さわやかな思いを得たのです。 教科書や通念が後退しつつあるなら、その分だけ、この本を前に押しやろう・・・・・とさえ、思ったものです。 だから、画家の篠原勝之さんにさし絵をお願いするときも、格別の討論を深めたのでした。たんに、被爆のむごたらしさをリアルに複製する「リアリズム」でもなく、ましてや、作品のつらさを甘くカヴァーするでもなく、むしろ、率直に、「原ばく問題」そのもののこわさを、きびしく表現するのが正当なことではないだろうか?───と。そんな願いを、画家にぶつけながら、私の胸をよぎったのは、先年の旅の一つの想い出でした。 私は、ソ連の児童教育の一端を見学しておりました。あるホールで、日本でも名のきこえた一流の歌手が、こどもたちのために、じつに本格的な歌をきかせている情景をながめて、私は感動したのです。 幼いうちから、ほんものを、ナマで聞いたり見たりすることの意義を、その日、私は見聞したのでした。 いま、この本をつくりながら、私は、こどもたちの前で真剣に歌っていた《芸術家》と、それに真剣に聞きほれていたこどもたちの陶酔とを思うのです。 ここに一冊の本があって、もしもこどもたちが、この本とめぐりあったならば、そこには「原ばく」のつらさやこわさが、きっちりと描かれている──そういうきびしい本を、こどもたちこそは、まっとうに受けとめてくれると信じるのです。 教科書では「原ばく問題」をひた隠しにしながら、安手で残酷な映像やマンガの世界をこどもたちに安売りしているむごたらしい通念と現状に対して、むしろこの一冊にこもるあたたかさをこそ、対置したいと思うのです。
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2015/7/23
7月18日午後1時。 「アベ政治を許さない」と書いたポスターを、私は上田の駅前で掲げました。 団体ではなく、組織でもなく、一人ひとりが自身の強い意志でつながる・・・・・。 同じ時間に集まった人々の間に身を置きながら、私はそのことを実感していました。 『悠吾よ!明日のふるさと人へ』は、2002年に生まれたはじめてのひ孫、悠吾に語りかけるように書かれたエッセーです。「ふるさと人への手紙」と題して、「週刊上田」に連載されたものが、一冊にまとめられ、2006年に刊行されました。 当時3歳だった悠吾は12歳になりました。中学一年生です。 こんなふうに成長した悠吾を父に見せたい・・・。かなわないことなのに、そんなことを思ってしまいます。 悠吾に託した父の希望の言葉が、今、私をも励ましてくれるのです。 2015.7.23
荒井 きぬ枝
『悠吾よ!― 明日のふるさと人へ』
小宮山量平
「はじめに」から (前略) けれども、ともすれば「我に愛すべき祖国ありや?」と自問を繰り返さずにはいられないほどの昨今の国情ではありませんか。そんな寂寥の年月を嚙みしめがちな老骨の心にも、時として湧く《希望》がある─とすれば、過ぐる二十世紀の動乱の中を生きて生きて生き抜いてきた身に、かけがえもなく恵まれた命の愛らしさに、せめてもの二十一世紀の栄光を祈ることでしょうか。 悠吾よ、不屈に、希望を!
悠吾に会える部屋で ─ あとがきに代えて ─ (前略) けれども悠吾たちよ!私たちはこの本のなかでも、しばしばくり返してきた。「嵐は強い樹を育てる」と。そして、どんなに強く育ったにせよ、「少数派は、少数派をつらぬいてこそ強い」と。 それはけっしてゴマメの歯ぎしりでもなければ、負け惜しみでもないはずだ。いわば、人間が、男たちが、居ごこちの良い人生を生きぬくためのダンディズムであるに違いないのです。(後略)
父はノートにこんなことを書き遺していました。
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2015/7/15
先日、無言館の窪島誠一郎さんがみえて、澤地久枝さんからいただいたお手紙を見せて下さいました。 “安倍政権の非道に抗議をしましょう。2015年7月18日(土)13時「アベ政治を許さない」のポスターをいっせいにかかげましょう。文字は俳人の金子兜太さんが書いてくださいました。 一人ひとりの意志で繋がる抗議行動です。” 最後に、その日時点(7月6日)での呼びかけ人の方のお名前が記されていました。 「小宮山先生がいらしたら、きっと呼びかけ人になってくださったね」。窪島さんがそうおっしゃいました。 私はその場で協力を申し出ました。呼びかけ人はさらに増えています。「拡散していただきたいのです。」澤地さんの言葉です。 上田では“上田駅前水車前に集まりましょう”という呼びかけが広まっています。 この文章を書いている間に、たった今、「安全保障関連法案」、まさしく「戦争法案」が特別委員会で強行採決されてしまいました。 3人の孫たち(男の子です)の顔が浮かんできます。この子たちを戦争に行かせてはならない。 今、強く思っています。 2006年に刊行された「悠吾よ!―明日のふるさと人へ」から。 以下の文章が“現在(いま)”と重なります。父の怒りの声が聞こえるような気がします。2015.7.15 荒井 きぬ枝
何と醜い人間だろう
小宮山 量平
それにしても、何と醜い面々が居並んでいることだろう!・・・・・と、思わずも口をついて出たのが、つい最近、「郵政民営化」とやら申す法案なるものが、改めて衆議院を通過し、次いで参議院まで、ケロリとした数合わせだけで通過したその直後。───どの面下げてとでも言うより他ない例によって例の如き顔ぶれが、ニタリとした表情で、固く握手をしたりして笑っている写真が、新聞の一面を飾ったりしているではありませんか。長年マイノリティとして、格別気にもせず、馴れっ子として世のオエライさんの陽気ぶりを眺めやることに馴れたつもりのジイサンなのですが、今度ばかりは、少々くたびれました。 よくもまあ、人間でありながら、これほど醜くなりうるものか・・・・・・と、ただただびっくりするばかりでした。せめてのことに、悠吾たち二十一世紀を生きる者たちに、こんな醜悪さを申し送ってはならない、と、二十世紀を丸ごと生きてきた老骨としては、つくづくと述懐せずにはいられませんでした。 いつごろ、どのようにして、あのような醜さがうまれたのでしょうか。もともと政治家と言えば、井戸塀というコトバの如く、わが家の井戸を涸らしたり塀までも売り払ったりしても、世につくすという誇りに身も心も奪われて、明朗に生きぬく、男の中の男の仕事でありました。 そんな心意気に燃えた男の子を生み育てた親たちはそれを誇り、そんな一家を仰いだ村や町や、わが郷党の誇りとしたものです。そんな誇りをステイツマンシップと称して、どこの大学なんかでも、そうした誇り高き人物を産み育てようと、教育の体系を練りに練ったものです。 (中略) 今やわが国の政治からは、そんなロマンの輝きは失せて、縁あってその世界に関わりを持とうものなら、財界人であれ、学者であれ、芸術家であれ、宗教家であれ、忽ち腐臭を放つほどに汚れ果てざるを得ないのが実情のようです。 むざんなまでに人間喪失の悲劇を見せつけてくれる「チルドレン」なんて見世物づくりを見るにつけ、もはやわが国の「第二の敗戦」も底をついたなあ、と呟かずにはいられません。 (後略)
2006/3
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2015/7/8
窪島誠一郎さん・松本猛さんの対談集刊行 地方の視点から「日本」語り合う 2015.7.5 信濃毎日新聞 地域覧掲載 −上田などで活動 小宮山量平さん次男が編集― 「信濃デッサン館」「無言館」(ともに上田市)館主の窪島誠一郎さん(73)と、「安曇野ちひろ 美術館(北安曇郡松川村)常任顧問で美術評論家・作家の松本猛さん(64)による対談集『窪島誠一郎・松本猛ホンネ対談<ふるさと>って、なに?』が刊行された。上田市の編集者兼作家、故小宮山量平さんの次男民人さん(51)=東京都=が編集を手掛けた。小宮山さんの世代から学ぶことを土台に、地方や文化の視点から日本の現状や将来について語りあった。 昨年春、「小宮山量平の名を引き継ぐような編集活動を探りたい」と独立を考えていた民人さんに、松本さんが「窪島さんと対談するから、本作りを手伝ってほしい」と声を掛けたのがきっかけ。昨年6月、小宮山さんの遺志を継いだ講座「私の大学」が上田市であり、初めて対談した。 同年7月は松本市で、松本さんが塾長を務める「信州自遊塾」で話した。東京でも一度対談し、民人さんと新日本出版社(東京)の編集者が5部構成にまとめた。 窪島さんと松本さんは、ともに東京から信州に来て美術館を設立した。窪島さんの父は作家の故水上勉さん、松本さんの母は絵本画家の故いわさきちひろさん。親が著名人といった共通点を題材に、第1〜4部では美術館が今の社会で果たす役割、水上さんやいわさきさん、小宮山さんの戦争に対する考え方について話し合ったことをまとめた。第5部は、2人が小宮山さんに宛てた「手紙」になっている。 民人さんは、小宮山さんが創業した理論社で25年間、編集者として子ども向けの本を手掛けた。 昨年4月、上田市の小宮山さんの編集室「エディターズミュージアム」内に、子どもの本の編集室 「きりんの本棚」を設置。理論社の原点である児童詩誌「きりん」から名付けた。今回が、独立して初の仕事になった。 小宮山さんは生前、就職予備校化した大学ではなく、自分の頭で考える若者を育てる場として「私の大学」の必要性を訴えていた。巻頭あいさつは、小宮山さんの長女・荒井きぬ枝さん(67)が「私の大学」実現への思いを記した。窪島さんは「僕たちは小宮山さんの世代からバトンタッチされたけれど、受け渡す先に誰の手もない」と感じているという。 松本さんは「経済優先ではなく、自然とともに人間らしく生きる、お金に換算できない地方の豊かさについて考えるきっかけになればいい」、民人さんは「『私の大学』を引き継ぐ最初のステップになった」と話している。 四六判、192P、税抜き1600円。エディターズミュージアムや県内の書店で購入できる。
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2015/7/1
父の最後のエッセー集となった『映画(シネマ)は《私の大学》でした』。
2006年1月から2009年3月にかけて映画雑誌「シネ・フロント」に連載されていたものが、一冊の本にまとまり、父が亡くなった年の7月に刊行されました。
ひとりひとりが心の中に“自分の大学”を持つことの大切さを、父はその題名で示そうとしたのだと思います。
「2年間の連載を引き受けたよ」と話す90歳間近の父にびっくりしたのですが、結局連載は3年間続きました。若い頃からの映画への思いがあふれ出てくるかのようでした。
岩波ホールのエキプ・ド・シネマ、第138回ロードショー「夕映えの道」のパンフレットに父は次のような文章を寄せています。 2015.7.1 荒井きぬ枝
現代哲学としての映画芸術
―岩波ホール/エキプ・ド・シネマの30年― 小宮山量平 (前略) 21世紀的Great work
岩波ホールが私たち一般観客にとってこの上もない「教室」となったことは、まぎれもない事実です。
それは大正から昭和初期にかけて語りぐさとなっている築地小劇場(1924〜1945)の果たした役割に劣らぬ役割を果たしつつあるといっても過言ではありません。
すでに30年に及ぶその歴史をかえりみれば、単に多くの観客がその「教室」に学んだだけではなく、じつにたくさんの創作者たちがその門から輩出しつつあります。そんな観客たちとそんな創作者たちとの同時代人的協業の中からは、単に狭義の「映画芸術」だけではなく新しい映像文化が、何よりも先ず「哲学的」に生まれ出てくるに違いありません。
レイ監督(*1)は「回帰」について多くを語っております。ワイダ監督(*2)は「受容」について語りつづけてきました。ちょうどあのアコヤ貝のように、その胎内に異物を挿入され、それを排除しようと身をよじって苦しみ、やがて苦しみのあげくに自らの胎液をもって異物を包み込み、遂にはその胎内に美しい真珠を結晶するように──回帰と受容という二つの精神こそは、単なるノスタルジーでもなく、無際限の寛容でもありません。
自らの創造力という巨きな苦悩を存分に注ぎ込んでのあげく、あのミルキーな結晶は生まれ出るはずです。
すでに岩波ホール上映作品の中にも、そういう結晶体の幾つかは生まれ出て、公開されています。
いや、先駆的な既上映作品の中にも「大いなる幻影」とか「旅芸人の記録」とか「宋家の三姉妹」のような21世紀にも語り継ぐべき大作品は生まれております。また「ピロスマニ」や「八月の鯨」のように、独得な意義が何度でも語り繰り返されるような記念的作品もGreat Workと呼ばれるべきでしょう。とりわけ、映画創造上のさまざまな苦難を克服してこんなにも平明に人間の誇りを語り得た「夕映えの道」をGreatWorkとして数えることに、私は躊躇しません。単にLaborを切り売りする人間ではなく帽子作りというWork(仕事)の誇りに生きた女主人公の気高さがわすれられないのです。 (作家) (*1) レイ監督 (注)第一回上映作品「大樹のうた」の監督 サタジット・レイ (*2) ワイダ監督 (注)「コルチャック先生」他 ポーランドの監督 アイジェイ・ワイダ
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