『出世をしない秘訣』(2011年こぶし書房刊)の“序に代えて”の中で、父はこの本があらためて刊行されることの意義を記していたのですが、訳者である椎名其二さんについても多く記しています。
──(前略)すでに著者として顔見知りの蜷川譲さんに先導されて、ぼくひとりの
二階編集部へぬうっと現れたのが、いささか老人めいた椎名さんでした。
──(中略)「椎名さん」についてならば、かの大杉栄との親しい師弟関係をも
ぼくが知りつくしており、とりわけぼくの愛読書であったファーブルの
『昆虫記』※(昭和10年、叢文閣版)についてならば、ぼくこそが進んで
そのいきさつを知りたがっている矢先きでもありました。
※1巻の訳者が大杉栄、2〜6巻が椎名其二
すでにあちらこちらで「おことわり」をくらってきたという訳稿を読み終えた父が、あっさりと「わかりました、お引き受けしましょう」とひと言答えるなり、椎名さんは身をおこし、父に手を差しのべます。
──(中略)椎名さんの眼に、思いがけない涙がにじんだのを、ぼくは熱く受け
止めるばかりでした。
こうして1960年の1月に『出世をしない秘訣』は、理論社から刊行されたのでした。
その年の晩秋に横浜港からの船旅で、椎名さんは当時暮らしていたパリへと帰っていかれたのです。
───(中略)その日から二年の後には、あたかも風の便りのように、椎名さんの
訃報が、ぼくらにももたらされたのでした。1962(昭和37)年4月
3日の逝去で、75歳の生涯であったとのことです。
椎名さんのパリでの暮らしぶりについて、父は“序に代えて”の後半で、いせひでこさん作の絵本『ルリュールおじさん』と重ねながら、以下のように記しています。
「ルリュール」という仕事があることを私もはじめてこの絵本から知ることができました。
2016年1月20日 荒井 きぬ枝
“序に代えて” より 小宮山量平
「2006(平成18)年に当時の理論社が生み出した絵本で、作家=画家は、いせひでこさんです。題して『ルリュールおじさん』と呼ばれる本書は、あたかも椎名さんその人のパリでの生活が、どんなふうにして成り立っていたのかを、つぶさに物語ってくれるような絵本そのものなのです。
一般に「本」と言えば、ハードカバーのりっぱな表紙本と、柔らかい紙表紙の並装本とに大別され、後者の多くは「フランス装」と愛称されます。と申しますのは、フランスの愛書家たちは仮とじめいた並装本を入手して親しむのが通例で、さて、それを読み終えての挙げ句「これぞわが家の本」と子々孫々に伝えるほどの名著名作ともなれば、改めてわが家の独特の上製本とし、家紋などを押捺して書架に飾るのが通例だと言われております。
わが椎名其二さんこそは日本的な職人的技能を身につけ、いつしかフランスでも格別の評価を受けるほどの「ルリュールおじさん」となり、気の向いた時、気の向くままの仕事に打ち込むことで、魂の自由を束縛されることもない暮らし向きを持続していたようです。 (後略)

いせひでこ作『ルリュールおじさん』(2006年理論社刊) ※現在は講談社から刊行されていますクリスマスが近いパリの町で「ルリュール」を探して小さな
路地を歩きまわったことがありました。(2011年)