2016/2/24
築地署で「少年よ元気を出せ」と励ましてくれた千田是也さん。続けて父は千田さんのこと、そして、『テアトロ』に関わったいきさつなどを綴っています。 (「昭和時代落穂拾い」“三文オペラ”より)(前略) 千田さんたちは新宿三丁目の松竹座で、ブレヒトの『三文オペラ』を大衆的に《乞食
芝居》とほん案して上演するはずであった。主役のメッキ・メッサ役の千田さんとしては、
この留置場こそはもっけの稽古期間らしく、全く傍若無人の振る舞いで、陽気に看守たち
を圧倒して歌いまくっていた!
(中略) 後年私は、『テアトロ』という雑誌の経営立て直し役を引き受け、千田是也・宇野重吉・
村山知義・木下順二の諸氏を並び重役としての社長を十年ほどつとめた。 その重役会で私たちは懐かしい『三文オペラ』の主題歌を歌った日もあった。 宇野重吉さんというと、私にとってもう一つ、父が連れていってくれた忘れられない芝居
があります。 大学生の頃、あれは確か赤坂の砂防会館ホールでだったと思います。木下順二作の「夕鶴」、「つう」は勿論、その役を1948年以来1000回以上も演じてこられた山本安英さん。そして「予ひょう」が宇野重吉さんでした。 観ておいてよかった・・・・・。45年以上も前のことなのに、今でもその時のお二人の姿が、何か宝物のように私の心にしまわれています。 ちょうどこの「夕鶴」が上演されていた時、父は『テアトロ』のお仲間でもあった宇野重吉さんの随筆をまとめる仕事にかかっていました。 1969年に刊行された『宇野重吉=新劇・愉し哀し』。この作品はその年の“毎日出版文化賞”を受賞しています。 その「まえがき」に宇野さんが記された文章から、編集者小宮山量平の仕事が見えてくるような気がします。 今回は、父の言葉に代えて宇野さんの言葉を・・・・・。 2016.2.24 荒井 きぬ枝
『新劇・愉し哀し』 まえがき 宇野 重吉 もう何年か前、それまでに書いたやはりこのような雑文を、尾崎宏次、戸板康二の両氏に
そそのかされてひとまとめにして『光と幕』という題で出した。その後もゴチャゴチャ書い
ているうちに又たまって来て、今度は理論社の小宮山量平氏にそそのかされた。 文字通りの雑文ばかりで前の時と同じく気が引けて、大分ためらったのだが、芝居の仕事
というのは後に何も残らないし、こんなものでもこれから芝居を始めようという人には何か
の参考になるかもしれないだろうとも考えて思い切った。 それが今、小宮山さんの手で整理されまとめられ、だんだん本らしい格好になって行くの
を見ていると、勝手なものでソワソワと何となく楽しくなって来るからおかしい。 『光と幕』は、その出版屋さんが、まさか私の本のせいではないと思うがすぐつぶれて、
新本のままごっそりと古本屋にさらされたのもあるらしいが、今では私の手元にも最後の
一冊しか残っていない。 そのこともあって、『光と幕』の中から二つ三つ抜き出してこの本に加えた。これも小宮山さんの知恵である。 (後略)

表紙をめくると宇野さんの署名が・・・。
「夕鶴」の舞台写真
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2016/2/17
父はよく私を芝居に連れていってくれました。小学生の頃に観た「俳優座」の“森は生きている”(マルシャーク作)は、わたしにとって
忘れられない作品です。主題歌まですっかり覚えてしまい、それを今でも歌うことができ
ます。 『千曲川』にはこの「俳優座」の俳優であり、演出家でもいらした千田是也さんと、
17歳の少年であった父とのめぐりあいの場面が描かれています。築地警察署でのことです。 『昭和時代落穂拾い』にはこんなふうに記しています。 (前略) とりわけ古参の留置人と思われる大柄の男が、辺りかまわず大声でしゃべり つづけたり、歌い続けていた。それが千田是也さんであった。 (中略)「少年よ元気を出せ」と私も励まされた。 後年、父は「テアトロ」という演劇雑誌の出版に関わることになり、まったく別の形で
千田是也さんとめぐりあうことになります。 どのようないきさつで「テアトロ」と関わることになったか、父にとっての芝居とは、
いったい何だったのか・・・・・・ それを探ろうとしていた矢先、かって「新文化」という新聞に連載していた父のエッセイ
が見つかったのです。“感動する心”を父は大切にしていました。 2016.2.17 荒井 きぬ枝 片想いの記 小宮山量平 (「新文化」昭和47年7月27日) 学生のころ、ひそかなときめきをおぼえながら毎号むさぼり読んでいた『テアトロ』と
いう演劇雑誌を、めぐりめぐって三十年後には、その社長という立場でお預かりすること
となってしまった。 こんなめぐりあわせが今も私を、かっての演劇青年時代と同じように足繁く劇場におも
むかせる。 年々に三十回以上も芝居見物する生活を十年以上もつづけていると、いっぱし批評家
なみの鑑賞眼が具わってもいいはずなのだが、もともと、批評する気で芝居見物などは
せぬもの、と心にきめて、もっぱら笑いと涙に溺れている身だ。 それにしてもひところは、滝沢修の口調を真似したり、宇野重吉ばりの『火山灰地』
朗読を隠し芸とするほどの客気はあった。だが、そこはかとなく老化現象を思い知るこの
ごろともなると、そんな面倒も遠ざけて、いつしか美女追憶型の単細胞的ファンの座に甘
んじるようになった。 東山さんをはじめとして杉村さん、山本さん、細川さん(注)・・・・・と、往年の美女の
舞台姿なら、どの劇、どの役の端々まで日を追って鮮やかに甦るようになるからふしぎだ。
ただし、これらの美女たちは、それぞれ、「新劇」という高級な額縁のなかで眺めてきた
せいか、甦ってきたその姿に、うやうやしく敬礼したくなるような存在だ。 私の亡兄が死ぬる直前、「いっぺん、水谷八重子さんに会ってお礼を申したかった」
と呟いたことがある。その時、男というものは自分の生涯の彩りともなった「同時代人の
美女」にはるかなる片想いの慕情と感謝をひそめているもの・・・・・と、しんみりと思い
知ったことである。 室生犀星先生は『女ひと』という随筆の中で、数々の美女たちに、「よくぞ美しくわが
時代に生まれて下さった」と感謝している。 この筆法で私の胸底を探れば、かの新劇界の美女たちよりは、もうすこし身近に血を
燃え立たせる「わが時代の美女」たちが、まるで失恋の相手のように、そくそくと甦る
のである。とりわけ、この一年は、懐かしの美女たちが、私の足を繁く劇場に向けさせた。 その一人は、申すまでもなく山田五十鈴さんだ。彼女の芸能生活三十五年を記念する
『淀どの日記』の美しさは、井上靖先生の原作の如何にかかわりなく呆然と私を涙ぐませた。 次なるは、淡谷のり子さん。昨年秋に『むかし一人の歌い手がいた』というLP盤で、
最近のテレビタレント的歌屋さんたちに、真の歌手の在り方を思い知らせる、したたかな
芸を示して受賞したと喜んでいたら、この夏には日劇で『淡谷のり子のすべて』という
リサイタルを催し、ざまあ見ろ!と拍手したくなるほどのほんものぶりを見せてくれた。 三人目が、越路吹雪!年初の『ロングリサイタル』でピアフの生涯を歌いまくり、
今夏は『アプローズ』で至芸を披露してくれた。私は業界の面倒な会合などに列席しな
がら、ふと、世の旦那方が、こういう同時代の美女の至芸に触れる胸のときめきさえ失わなかったら、随分と心は通じあうだろうに・・・などと、失礼な物思いにふけったりすることが
ある。
こうした美女たちへの片想いならば、うちの奥さんにも手放しで公開できるから安心です。
(注)東山千栄子、杉村春子、山本安英、細川ちか子 父が発行人となった1964年6月号〜1973年8月号
投稿者: エディターズミュージアム
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2016/2/10
INFORMATION─── 小宮山量平の「私の大学」 講座 その6講師/ 石川文洋さん(報道写真家) 1938年 那覇市生まれ 1965年から1968年までベトナムに滞在し、ベトナム戦争の最前線を撮影 著書に「戦場カメラマン」「沖縄の70年」など。 『私が見た戦争と沖縄の米軍基地』 日時:3月26日(土)PM3:00〜5:00 場所:エディターズミュージアム 参加費:1,200円◇受付開始:3月12日(土)から 受付時間:AM11:00〜PM5:00
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「戦争を防ぐには、戦争の実態をつぶさに伝えるしかない」。──2014年の朝日新聞の夕刊のインタビュー記事の中にあった石川文洋さんの言葉です。“「戦争はイヤだ!」と大声で叫ばなければならないようなこの国のありさまです。戦争がどんなに悲惨なものであるかということを、どうか今、この場所で話して下さい。” 手紙でそうお伝えしました。そして、この講座が実現することになりました。さらに石川文洋さんの言葉です。(前略) 戦争に関する取材をしていて、沖縄の言葉「命(ぬち)どぅ宝」をいつも思い出しました。生きていればいろいろなことが体験できます。つらいこともあるけれども、喜びも多い。戦争はいろんな夢や希望を持った子どもたちの命を奪います。 私たちは、子どもたちが平和の中で成長していける環境をつくる責任があると思います。
世界の平和を築き、戦争を防ぐためには、戦争の実態を知り、その悲劇を想像することが大切と思っています。(後略) 『私が見た戦争』(2009年 新日本出版社刊)あとがきより父が語り続けていた言葉が、文洋さんの文章と重なって、今またよみがえります。 2016.2.10 荒井 きぬ枝“命を大事にする”という哲学を日本人はもう一度取り戻さないといけない。
小宮山量平
2010年の「うの花忌」文洋さんと父(ミュージアムで)
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2016/2/3
「理論社と私」(飛ぶ教室 38号)という文章の中で、倉本聰さんが語っていらした『日本シナリオ文学全集』(第一巻〜第十二巻、1956年)。 倉本さんにはじめてお目にかかった時のことを、父もやはりそのことにふれながら記しています。 (前略) その時、倉本さんがにんまりと笑って、「ぼくは、ずいぶん昔から、小宮山さんの名 を知っていたんですよ」と言われたことを、今も昨日のように覚えています。 聞けば倉本さんは、未だ高校生のころ、かって私の制作したシナリオ文学全集を真っ 赤になるほど朱線を引きながら読み更ったのだそうです。 「あのシナリオ文学全集が、ぼくのテレビ・シナリオ作家としての人生を決定づけた んですよ」───そう聞いた瞬間も、そして夜ベットの中でも、私はとめどもなく涙を 流したものです。あんなにも私の出版経歴の中に痛切な想い出を残した愛憎きわまる 制作物なのではあるが、それが一人の倉本聰を生み出したとすれば、以て冥すべきで はないか!しかも映画時代からTV時代へと、映像文化の進化する二十余年の歴史を 経て、こうしてその人とめぐりあえるとは! 私は、めぐりあいの奥深さに感動する ばかりでした。 (後略)─── “倉本聰 その国民文学的創造”より 以前、このミュージアムを訪ねてくださった山田洋次さんは、“日本シナリオ文学全集”が置かれている棚の前に立たれ、なつかしそうにおっしゃいました。「僕はこの全集を全部持っています。お世話になったんですよ。」と・・・・・。 なぜ父が当時シナリオの出版に踏み切ったのか・・・・・その問いに答えてくれる父の文章がありました。“今出すべき本を出す” ということが、父という編集者にとっては何よりも大切な仕事でした。けれど、出版社としての経営面からは、大変困難なことであったのです。 理論社をおこしてからずっと、父はそのことと戦ってきたのだと思います。 2016.2.3 荒井 きぬ枝
シナリオ文学というジャンル 小宮山 量平
いま七十歳前後の人びとの多くは、昭和初年から10年代にかけて、その知的青春のめざめを体験しているはずです。この人たちにとっては、どんな講義よりも、その時代の「映画」こそは最高の知的メディアでありました。 かえりみれば、映画そのものも昭和十年前後のころに最高の水準に到達していたと言っても過言ではありません。 ところが戦後になって、これら映画のシナリオを探し求めても、その多くは映画制作の現場では消耗品として扱われ、殆どが消失している有様でした。 理論社を創業して数年目のころ、私は《シナリオ文学全集全12巻》という大企画を刊行して、映画というものが私たちにとって最上の文学そのものであったことをひろく確認してもらおうと願ったことがあります。そのために、山中貞雄や伊丹万作のシナリオなどを、手をつくして探し出し、時には故人のエスキスまで参考にして、活字に復活したものです。 不幸にして、このような企画の冒険そのものが営業上の重荷となって、わが理論社は窮地に陥り、この全集の発行権そのものを他社に譲らねばならなくなったという痛切な体験があります。 (後略)
日本シナリオ文学全集 全十二巻
投稿者: エディターズミュージアム
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