私がここに「森は生きている」について、その作者マルシャークについて書き始めた2〜3週間前のことです。
かつて理論社から送られてきた膨大な資料の中に、ボロボロになったファイルを見つけました。
表紙にはロシア語が記されています。開けてみてびっくりしました。不思議な気がしました。マルシャークさんの写真と手紙(当時、ロシアにいらした岡田嘉子さんが代筆されたもの)が出てきたのです。写真には自筆のサインがしてありました。
マルシャークさんとのつながりを父が私に伝えようとしている・・・・・・。そう思いました。
1957年、「つづり方兄妹」の野上房雄君が書いた“ぼくらの学校”という作品が「モスクワ国際児童つづり方コンクール」で一等賞をとりました。
けれど、そのことを知らずに房雄君はこの世を去ったのです。風邪から肺炎をおこして・・・・・・。その“ぼくらの学校”の一部分です。 (前略)
ここは、もと、たくさんな、へいたいさんが、すんでいました。それが、せんそうもすんで、ぼくたちの学校になったのです。
けれども、やっぱり、秋が、来たら、学校のまわりに、きいろいとらのおの花がいっぱいさきます。その時は、ほんとうに、かやくのにおいがにおってくるような気がします。でも、ぼくたちは、その花をおって、おかの上のおじぞうさんに、そなえるのです。そして、「おじぞうさん、もう、せんそうがおこらないようにまもってね」と言っていのります。
その時、おじぞうさんは、とっても、かわいい顔をして、ニコニコ笑っていらっしゃいます。そして、「そうね、あんたたちみんないいこなんだもの、もうめったに、せんそうなんかおこらないわ。みんなあんしんして、いっしょうけんめい、べんきょうしてね。」と言っていらっしゃるようです。
それなのに、ぼくたちは、げんしばくだんの、おっかないお話ばかりきくようになってきました。おまけに学校のとなりの森の中に、かやくを作る工場ができると言うおはなしが、きまりました。みんな、ほんとうに、びっくりしました。
そして「かやくはんたい」と書いた紙のはたをふってあるきました。
(中略)
ところが、また、このごろそうりだいじんから「お家をたてるから、学校は、どっかへひっこしてください」と言ってきました。ぼくらは、このお話を兄ちゃんからきいて、ほんとうにびっくりしました。
(中略)
ほんとうにこまったことになりました。このごろ「おじぞうさん、どうかぼくたちの学校がひっこししないように、おたすけください」と言って、いのっています。 マルシャークさんは、「つづり方兄妹」の出版に当たって、次のような文章を岡田嘉子さんに託したのでした。(マルシャークさんも岡田嘉子さんもこのコンクールの選者でした)
今回は、父の言葉に代えてマルシャークさんの手紙をここに記しておきます。荒井 きぬ枝
わたしは、日本の少年、野上房雄君を一度も見たことはありません。けれど、この少年の、僅か一頁ほどの短編“わたしの学校”を読むと、わたしはかれの澄みきった声───小さな、だが世界中に響き渡る声をきくような気がします。
多くの作家が一冊の本に物語る以上のことを、幼い小学生は、数行の言葉でのべつくしています。かれの通っていた丘の上の学校かれをめぐるすべてのものが、わたしたちの前にありありと浮かんできます。
少年がこの世界に生きたのはごく僅かでした。けれど、かれは、人びとに短いながらも充分の力をもつ遺言──平和を大切にしてください。と言い残しました。
大人が、かれの遺志をかなえて、丘の上の学校をまもり抜いたかどうかは知りません。けれど、わたしは、野上房雄少年の話を読んだ人びとが、かれのおもかげ、かれの声、かれの平和への、偉大な遺言を、永久に胸に焼きつけるだろうことを信じています。
1958年4月7日 マルシャーク (モスクワ)
マルシャークさんの写真とサイン
岡田嘉子さん代筆のマルシャークさんの手紙