8月16日付の毎日新聞の夕刊。 「特集ワイド」──2016夏、会いたい──“平和よ”と題された記事。 記者の鈴木琢磨さんが、亡くなった父に会いに来て下さったのです。(前略)
小宮山さんに会いたくて、長野県上田市へやってきた。
(中略)
先の見えない時代、私は折に触れ、どうしたものかとインタビューしてきた。
記事に添えられた写真は2010年秋、鈴木さんが話を聞きながら一緒に歩いた神保町で撮影されたものです。
父にとって神保町はもうひとつの故郷(ふるさと)でした。(中略)
編集者でありながら、自らもペンを執った。心の友だという喜劇役者チャップリンの児童向け伝記『チャップリン 笑いと涙の芸術家』を書いたりした。〈かれによって、わたしたちは、戦争というものを笑うことをしり、悲しむことをしりました〉。
平和を願いつつも戦争へと突き進む人間の業を見つめてきた。
晩年父は、自身が書いた『チャップリン』(“少国民の偉人物語文庫”岩崎書店1958刊)を再版したいと夢見ていました。 父が亡くなってから、何とかその夢を実現させたいと、そして、なぜ父が再版を願ったかを知ろうと、私はくり返しこの本と向き合ってきました。(中略)
夕暮れの千曲川のほとりを歩いた。かわいいベレー帽の小宮山さんと散策した日が浮かぶ。「100年後には世の中、少しは進む。そんなふてぶてしさを持つのです。腹さえ据われば、眼前で起きている全ては喜劇ですから」。
そうつぶやいていた。
小宮山量平は日本のチャップリンだったかもしれない。
2010年神保町で岩下幸一郎さん撮影
『チャップリン』再版の夢を果たせずにいるわたしにとって、鈴木さんの文章は、そっと私の背中を押して下さっているように思えるのです。2016.9.7 荒井 きぬ枝
チャップリン ― 笑いと涙の芸術家
まえがきより 小宮山 量平
(前略)
思えば、わたしたちの生きた二十世紀の前半という時代は、長い人類の歴史のなかでも、とりわけ大きな波風にみちた時代でした。いっぽうに、科学の発達にみちびかれたすばらしい時代の窓がひらかれ、そこから技術と文明の大きな成果が流れ込んで、人類はまさに、宇宙そのものをも制服するかのごとき自信にみちみちてきました。
だが他方に、飢えと失業、戦争と犯罪のような現象が、手に負えない病気のように人類の自信を足もとからつきくずしてきました。これらの自信と不安にもみくちゃにされたあげく、いくつかの歴史の曲がり角に立って、途方にくれた思い出を、わたしたちの誰もがもっています。そういう現代人の悩みを、明快な思想でつきやぶってくれた人もおります。逞しい信念や、みごとな生き方で、身をもってはげましてくれた人もおります。
しかし、叱ったり教えたりしてくれる教師や指導者とならんで、何よりも、わたしたちの悩みそのものによりそって、いっしょに理解し、いっしょにため息をついてくれる「心の友」がいてくれなかったら、現代は、救いようもなくひからびたものとなったことでしょう。
チャップリンは、そういう「心の友」の一人――最良の一人でした。わたしたちは、一人の喜劇役者のおどけた演技や奇抜な思いつきによって、思うさまくすぐられたり、笑わせられたりしてきた、と、思い込んでいました。
しかし、いまにして思えば、わたしたちが泣きたいとき、あたかもその泣きたい何億の心をぴたりとつかんで、いっしょに泣いてくれた人こそ、チャップリンだったのです。わたしたちが、こみあげる笑いをあつかいかねているときに、その何億の笑いを一つにまとめてせきを切るようにどよめかせてくれた人こそ、チャップリンだったのです。
こうして、わたしたちは、チャップリンといっしょに笑い、チャップリンは、わたしたちといっしょに笑っていました。
かれによって、わたしたちは、戦争というものを笑うことを知り、悲しむことをしりました。貧乏や失業についての、笑いと悲しみをも発見してきました。
現代の深刻な問題について「怒りか、絶望か」というようなゆとりのない対決だけをしてきたら、一つ一つの曲がり角ごとに、おそらく、わたしたちの息はきれてしまったことでしょう。 すぐれた喜劇役者のしめしてくれた笑いと悲哀は、何億の人びとの心のエネルギーを、ゆったりともちこたえさせてくれる、ほんとうの妙薬でした。チャップリンを思い出すとき、誰しもが、「人生の知恵」とでもいうべきものを考えずにはいられないのもこのためでしょう。 (後略)
『チャップリン-笑いと涙の芸術家』