『月の輪教室』という本が刊行されたのは1954年。その序文、「はしがき」を書かれているのは三笠宮崇仁さまです。直筆の原稿がこのミュージアムに保存されています。編集者であった父は、どのような経緯があって宮さまにお願いしたのか・・・・・。
「お父さん、どうして?」───私はまたもその問いをくり返します。
2016年1月4日付信濃毎日新聞夕刊に掲載されていた記事に、その答えの一つを見つけました。
〈岡山・月の輪古墳 前例のない住民主体の発掘〉
終戦から8年。厳しい食料事情を背景に宮内庁が陵墓参考地の調査を続けていた1953年(昭和28年)8月、岡山県の旧飯岡村(現美咲町)で、村人たちと岡山大助手の近藤義郎らが月の輪古墳の発掘を始めた。
夏休み中の子どもや先生、お年寄り、昭和天皇の3番目の弟でオリエント史研究者の三笠宮さま(100)まで延べ約1万人が参加。日本の考古学界では前例のない住民主体の発掘調査で、記録映画や文集が作られる社会現象となった。
「食べるものはなかったが、『新しいことを学ぶ』という熱気があった。真実の歴史を自分たちの手で調べるんだ、と毎日、勢い込んで現場へ通いました」。当時、中学3年だった元美咲町教育委員会委員長の角南勝弘(77)が振り返る。
(中略)
中でも三笠宮さまは発掘本部の宿舎で2泊し、竹べらを握って発掘にも参加。「戦時中は政治の圧力で日本人が自らの歴史をつかむことができず、それがあの戦争の悲劇を生んだのだと思う。正しい歴史への努力は美しい」と村人を励ました。 (後略) (「天皇陵秘録」より)
『月の輪教室』には発掘に参加した先生たちの手記、小学生たちの詩やつづり方、中学生や高校生たちの作文が収められています。
「はしがき」で宮さまは飯岡村の人びとを心からなつかしまれ、その人びとの手でこの大事業が遂行されたのだと記されています。
村の人びとが、先生が、生徒が、それぞれこの発掘を通して体験した“歴史を学ぶ”ということの大切さ。宮さまの思いと父の思いが重なります。
父が編集したこの本の目次には、父がずっと大切にしてきたアラゴンの詩の一節が引用されています。
教えるとは希望を語ること。
学ぶとは誠実を胸に刻むこと。
そして本の帯に父の言葉が遺されていました。
2016.11.2 荒井 きぬ枝
10,000人が参加した古墳発掘・新しい歴史教育
教師も生徒も村人も、子供も大人も老人も、生き生きと手をくみ、汗にまみれて学んだ。
真実をつかみとる喜びに、人々が結んだ美しい協力。そこに新しい教育の芽が、民族の自信をよびさますちからが、・・・・泉のように新鮮にわきでている!
小宮山量平 編
(「月の輪教室」帯より)