東京大空襲を描いた絵本『猫は生きている』(1973年理論社刊)。これ以上の組み合わせは考えられないと思うほどの早乙女勝元さんの文章と田島征三さんの絵です。 私が創作児童文学出版の道を拓いたなどと評価されたりすると、ただ恥ずかしい。そんな時私は、「めぐりあいです」と小声で呟くだけです。(昭和57年2月5日 信濃毎日新聞“来し方の記”より)
編集者と作家、編集者と画家、そして作家と画家・・・・・・・。
“めぐりあい”があって、本が生まれました。
父は同じ文章の中で続けます。「作家は発掘などできませんよ。私たちに可能なのは、めぐりあいのふしぎさに感動することだけです」と私は叫ぶ。 この場所で、多くの本に囲まれながら、父が遺した“めぐりあいのふしぎさに感動する”・・・・・・ということばが、今さらのように私の胸に迫ってきます。
作家と画家と編集者、その“めぐりあい”を語った父の文章を見付けました。荒井 きぬ枝
名コンビ 10 齋藤隆介・滝平二郎
小宮山 量平
著者と画家のコンビの中でも、これほどの名コンビは、めったにあるものではありません。『ベロ出しチョンマ』『ちょうちん屋のままっ子』(理論社)、『八郎』『三コ』(福音館)、『ゆき』(講談社)『花さき山』(岩崎書店)、『立ってみなさい』(新日本出版社)・・・・・・と、これまでの全作品が、いずれもこの「コンビ」によって、独特な《本》の世界の美しさ愉しさを創り成しているのです。
そのあげく、読者の期待も、この作者にしてこの画家、この画家にしてこの作者・・・・・・と、定着しつつあるほどです。
にもかかわらず私は、このふたりの結びつきを「コンビ」というような通念で縛りつけることに、とうていなじめないのです。因果なことに、作家も画家もそれぞれの宿命的な星を胸底に抱いて、それぞれに創造の刻一刻をのたうちまわる芸術家なのです。
とりわけこの両者のように創造性に富んだ芸術家にとっては「繰り返し」や「パターン化」ほど忌むべき敵はありません。今日、齋藤さんが描いた世界が、滝平さんによってみごとに形象化されたにしても、明日、同じ組み合わせによって同じ成功が得られるという保証は、むしろ少ないのです。
その点で、スポーツやステージにおけるコンビとは本質的に異なった緊張感が、ふたりの結びつきを高めていると思うのです。
現にこの両者との交友を刻んだ私の心のアルバムには、作家から画家へ、画家から作家へ・・・・・・と、互いに歯ぎしりしながらの、口論や反撥の真剣さばかりが鮮明なのです。
そして編集者としての私とすれば、「齋藤隆介の作品は滝平二郎の絵でなければ」と、安易に決めつけてしまいがちな本造りの姿勢を、その都度、きびしく反省させられたものです。
こんな思いを重ねたあげく、私にほのぼのと見えてきたのは、それぞれに不屈で孤高なふたりを、いやおうなく道づれとしてひたむきに同じ方角に、競い授け歩み続けさせるひとすじの《道》なのです。
──その道は、作者にとっては、日本の文壇文学が体質的に喪失している雄勁なロマンチシズムと名づけられるかもしれません。画家にとっては、日本の民衆の生活史の厚みから「失なわれてはならないもの」の簡明な摘出かと思えます。
そして編集者の眼からすれば、断絶とやら挫折とやらにあえぐ日本の現状にあって、おくめんもなく日本人民の愛と生の楽天主義を求めつづける行脚の道とみえるのです。
この道の曲折と遠きを思えばふたりの旅人は、ようやくめぐりあったばかりであり、はるかな旅の首途を迎えたばかりではないでしょうか。 (後略)(SHISEIDO CHAINSTORE NO.168,1971・10月号掲載)
初版 1967年
新・名作の愛憎版 2000年