政治家の不祥事には言葉もありません。 そして政治家、それも閣僚のあまりにも品性を欠いた発言。「失言」だから取り消して謝罪をすればいいというものではありません。「失言」ではなく、その言葉がその人の人格そのものなのです。「失言」でかたづけるな・・・・・と怒りが込み上げてくるのです。 「何と醜い人間だろう」と題した父の文章を思い出しました。2005年に“郵政民営化関連法案”が可決・成立されたことを背景に書かれたものです。 今とそっくり・・・・・、そう思わずにはいられません。2017.4.26 荒井 きぬ枝
何と醜い人間だろう
それにしても、何と醜い面々が居並んでいることだろう!・・・・・と、思わずも口をついて出たのが、つい最近、「郵政民営化」とやら申す法案なるものが、改めて衆議院を通過し、次いで参議院まで、ケロリとした数合わせだけで通過したその直後。──どの面下げてとでも言うより他ない例によって例の如き顔ぶれが、ニタリとした表情で、固く握手をしたりして笑っている写真が、新聞の一面を飾ったりしているではありませんか。 長年マイノリティとして、格別気にもせず、馴れっ子として世のオエライさんの陽気ぶりを眺めやることに馴れたつもりのジイサンなのですが、今度ばかりは、少々くたびれました。 よくもまあ、人間でありながら、これほど醜くなりうるものか・・・・・と、ただただびっくりするばかりでした。せめてのことに、悠吾たち二十一世紀を生きる者たちに、こんな醜悪さを申し送ってはならない、と、二十世紀を丸ごと生きてきた老骨としては、つくづくと述懐せずにはいられませんでした。 いつごろ、どのようにして、あのような醜さが生まれたのでしょうか。もともと政治家と言えば、井戸塀というコトバの如く、わが家の井戸と塀のほかはすべてを売り払ったりしても、世につくすという誇りに身も心も奪われて、明朗に生きぬく、男の中の男の仕事でありました。そんな心意気に燃えた男の子を生み育てた親たちはそれを誇り、そんな一家を仰いだ村や町や、 わが郷党の誇りとしたものです。 (中略)
今やわが国の政治からは、そんなロマンの輝きは失せて、縁あってその世界に関わりを持とうものなら、財界人であれ、学者であれ、芸術家であれ、宗教家であれ、忽ち腐臭を放つほどに汚れ果てざるを得ないのが実情のようです。 むざんなまでに人間喪失の悲劇を見せつけてくれる「チルドレン」なんて見世物づくりを見るにつけ、もはやわが国の「第二の敗戦」も底をついたなあと、呟かずにはいられません。 今や当面の「改革」とやら「増税」とやらの雑音そのものが問題なのではなく、そんな雑音に気をとられている間にも、私たちの品性までが卑しくなり、悠吾たちまでもが腐臭を発するようにならないとも限りません。君子ハ危ウキニ近ヨラズ・・・・・と決め込んで、わが身を守る安全地帯はないほどに、既にわが国の敗戦現象は進んでしまったのでしょうか。
(後略) 『悠吾よ!明日のふるさと人へ』(2006年 こぶし書房刊より)