ふつうなら私のように思想的「前歴」のある者などは真っ先に前線の危地へと送りこんでしまうのが、当時の不文律であったようだ。ところが私ときたら、戦場へ飛ばされぬばかりか、むしろ日に日に急迫する兵隊教育にとって最適の教官でもあったのだろうか。絶え間なく召集されてくる初年兵たちを九回も教育した。次第に老兵化し、妻子持ちも多くなる「初年兵」たちが、三ヶ月毎に一人前の兵隊となって、やがて戦地へと送り込まれる。
──戦後三十年以上を経て、沖縄が観光地と化し、仕事の上の機会があっても、私の足は、そこへ向かうことはなかった。けれども四十年が経ち、真にやむを得ない所用のためついに赴くこととなった私は、ひとりひそかに「摩文仁の丘」を訪れた。
そこには各都道府県毎に哀悼の志を競うかのように個性的な碑が建てられているのだ。
その中でも一段と高く巨きいのが北海道の北霊碑である。それもそのはずだ。敗戦も間近にソ満国境から沖縄へと廻された北海道出身の兵士一万余を含めて最も多くの生命が、そこに虚しく散華している。
私はそのオベリスクを仰ぎながら、その石肌の粒子毎に、かりそめにも私が教え子と呼んだ兵士たちの魂魄のきらめきを感じないではいられなかった。───君らは死に、俺は生きてしまった!
・・・・・その呟きが、今も私にとっての太平洋戦争の重みである。
昭和二十年二月には硫黄島で次兄は玉砕していた。同じ年の七月十五日、敗戦を一ヶ月後にひかえての津軽海峡で、わが長兄の乗った連絡船は撃沈の運命を辿った。同じ日、私は帯広の師団司令部から釧路へ帰途の列車の中で、グラマン機の掃射を受けていた。それから正に一ヶ月後、私たちは敗戦を迎えた。
「うの花忌」は2008年から開催。みずみずしい白い花(ウツギ)が飾られた会場で、親交があった人たちがマイクを握って思い出を話した。月刊誌編集者として灰谷さんを中心とした対談企画を手掛けた新海均さん(64)=埼玉県所沢市=は「(企画で)小宮山先生にいただいた文章が見事で感服した」と振り返った。
小宮山さんの長女荒井きぬ枝さん(69)は「永さんが一昨年、車椅子で来てくれた時の言葉が『憲法を守りましょう』だった」と紹介し、改憲に向けた動きが活発化する現状を危ぶんだ。
3人と親交があった在日韓国人のミュージシャン趙博さん=大阪市=は、ギターなどによる関西弁を交えた弾き語りで、灰谷さんの作品を紹介したり、安倍晋三政権を風刺したりして会場の笑いを誘った。