きょうは土用の入りです。
今年の丑の日は7月25日、二の丑が8月2日です。120年前、上田駅前に創業した鰻屋「若菜館」は父の長姉“喜久姉さ”の嫁ぎ先であり、生家の酒屋の倒産後は、父にとってふるさと上田で唯一“帰れる場所”でした。
“喜久姉さ”は「若菜館」の“武彦さ”(後の二代目荒井民次郎)の後添いとして迎えられたのでした。
『千曲川』第二部の冒頭の部分で、父はその“武彦さ”について描写しています。父はこの義兄をとても慕っていたのだと思います。敗戦後、父が「千曲文化クラブ」を立ち上げたのは、この「若菜館」の一隅でした。
「季刊理論」の創刊号で、削除された父の文章「楯に乗って」は“荒井民平”というペンネームで書かれています。
武彦さ夫婦は子宝に恵まれず、生まれたばかりの赤ちゃんを養女としてもらい受けます。『千曲川』に登場する“ユキ”です。
この“ユキ”がやがて父の妻となり、私の母となるのですが、このことを話しはじめると長くなってしまいます。おいおい語っていきたいと思います。2017.7.19 荒井 きぬ枝
『千曲川』第二部より
(前略)
その武彦さときたら、何と働き者なんだろう! 毎朝十時頃までには、昨日配達しておいた丼やら重箱の出前下げをすませ、さて昼飯の客用に名代のウナギを裂いたり焼いたり、今日の注文の出前を配達したり、そんな家業の合間には、消防分団長の役目を果たすかと思うと、母校上田中学の剣道場に現れては後輩相手にひと汗かいたりもする。
そんな働きぶりには、ぼくは眼を見張るだけで、トテモ叶ワナイナア・・・・・と、内心に呟くばかりであった。 (中略)
とりわけ六月の長梅雨が明けたとたん、このウナギ料理店にとっては書き入れどきの土用の《うしの日》を中心に、戦場のように多忙な日々がつづく。折から七月の酷暑と連日の忙しさとで、喜久姉さなどは眼のまわりを落ちくぼませて働きつづけるありさまなのだ。
だが、武彦さともなると、こんな夏場を悠然と乗り切るのが男の意地とばかりに、客たちが帰り終わるなり、裏の川を見下ろす縁側に座って、朗々と謡曲を唸ったりするのであった。 (後略)
昭和17年、金属類を国に「供出」した時の記念写真
左から一人おいて、喜久姉さ、うき枝(ユキ)、武彦さ、初代民次郎の妻きぬ