つかの間の夏休みに奈良を訪れました。
平城京跡を右手に見ながらたどりついた西大寺。 (前略)
本堂の中は夏でもひんやりしている。ここは素足にかぎる。小谷先生はソックスをぬいで、その冷気にふれた。そして、まっすぐに堂の左手の方に歩いていった。そこに善財童子という彫像がある。
「こんにちは」───と小谷先生は呼びかけた。
「ちゃんとまっていてくれましたね」
小谷先生はほほえんだ。
あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。ひとの眼というより、兎の眼だった。それはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった。
(後略)『兎の眼』(灰谷健次郎著 1974年理論社刊より)
いつか西大寺へ行って善財童子に会いたい・・・・・・。
静かなお堂の中は、周囲に置かれたいくつもの灯りがきれいでした。
小谷先生のように私も語りかけました。
「会いにきましたよ」───。
胸がいっぱいになりました。
「どうしてあんなに美しいのでしょう」
「美しすぎるわ、どうしてあんなに・・・・・・」
小谷先生はその時とつぜん高校時代の恩師の言葉を思い出します。「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん、人間が美しくあるために抵抗の精神を忘れてはなりません」。
「人間が美しくあるために抵抗を・・・・・・」小谷先生はそうつぶやいてどきっとするのです。
先日BS11で放映された番組の中で、灰谷さんの手紙が紹介されました。『兎の眼』を書きあげ、父に宛てた手紙です。 “ぼくは今ぎりぎりです。そのぎりぎりだけを書きました。” その一文を私は忘れることができません。 2017.8.30 荒井 きぬ枝
幼い魂の抵抗──『兎の眼』の意味するもの
(前略)
わたしに深い自戒がある。
わたしたちは子どもの反抗の意味を知らなすぎたのではないか。『兎の眼』の中に、いわゆる自閉症児といわれる子どもが登場する。かれはなぜ黙して語らないのか。かれはなぜ攻撃的に反抗するのか。
子どもたちの反抗の意味を探ろうとせず、ただ教える側の立場で安住してきたわたしたちの怠慢が、今、選別教育の渦の中で問われようとしている。
知能公害に加担してきたわたしたちの罪が、さまざまな教育の荒廃の事実でもってあきらかにされつつある。わたしにはそう思えてしまうのだ。
『兎の眼』の自閉症児鉄三の反抗は、教師の怠慢と誤解を撃つ。
ハエしか飼えない環境に住む鉄三のありように目を向けず、ハエは不潔なものとしてその小さな生命の抹殺を命ずる教師の傲慢さを、ハエかて命や、と反撃する幼い魂の光芒は、確実にわたしたちの腐敗を浮き彫りにする。
(中略)
教える側と教わる側というタテの関係の中に教育の本質があるのではなく、あらゆる人生は、かけがえがないという意味において対等なのであり、学び合うというつながりの中にこそ、ほんとうの人間教育は成立するのだということを、ようようにしてこの若い女教師は知るのである。(後略)(全集版『灰谷健次郎の本』第19巻エッセイ集より)

善財童子像