わたしはかって、子どもたちの美しい眼がうつくしいのではなく、美しい眼をもつための子どもたちのレジスタンスが美しいのだと書いたことがあります。
この考えは、今も少しも変わりがありません。子どもたちのやさしさが、根元的に生命の平等感から出ているということは、はじめに述べましたが、それが成立する過程に、子どもたちのいくさがあります。
彼らはそのいくさを通して強靱にもなり、人間としてのしなやかさも身につけていくのです。
かなしいことに、子どもたちのいくさの相手が親であったり、教師であったりするとき、決して望まないドラマが展開して、喜劇やら、悲劇やらが生まれてしまいます。
おとなたちは「選ぶ」ことより妥協することの方を選びますが、子どもたちは「選ぶ」ということに執着して、分別とか建前にそっぽを向きます。興味あることが子どもたちにとって、最大の良心であって、彼らはその良心を守るためには、たたかうことを少しも厭いません。
「道徳」が“教科”になるのです。「道徳」の教科書ができるのです。「道徳」が成績として評価されるのです。“たたかう子どもたち” の心に寄り添うのではなく、子どもたちの心のありようを評価の対象にしようとしているのです。
「善財童子」をまた思い浮かべています。
囲ってある手すりの上に、すり切れた文庫本の『兎の眼』が置かれていました。
小谷先生が“抵抗する美しさ” に気付く場面がよみがえります。
『兎の眼』を書き上げた灰谷さんに寄せた父の文章がありました。