十二月にはまたパリを訪れる予定です。十九回目のパリ。
何故パリへ───?
私をひきつけるものの一つが “エコール・ド・パリ” です。二十世紀の初頭、パリに集まった若き芸術家たち。
パリを訪れるたびに、モンパルナスのヴァヴァンの交差点にあるカフェ “Le Dome(ル・ドーム)” のテラスにすわって、私は “エコール・ド・パリ” に思いをはせます。
日本人だとわかって、「奥にフジタの絵があるよ」と教えてくれたギャルソン(給仕)が
いました。カフェのテラスからはモディリアニがいた家のあった通りが見えます。
モディリアニが好きです。
それが父の影響であるのかどうか・・・・・・。
「一枚の繪」に連載していた “めぐりあいの感動” の中にモディリアニについて書いた
父の文章を見付けました。
若い頃、居間の壁にモディリアニの「青い眼の女」のポスターを貼り付けていた私。
父の青春時代の思い出の “モディリアニ”。その話を聞かせてほしかったと今、悔やまれ
てなりません。2017.10.18 荒井 きぬ枝
青春は《えぴきゅうる》の園で
−わが若き日のモディリアニ−
(前略)
その33年の暮れには、私自身が他愛もないことで検挙され、半年近くも東京のN署に留置されることとなったのですが、そのすさまじい環境でさえ、そこでめぐりあったあの人この人を想えば、正にカモシカの如くであった十七歳の自分がよみがえり、まぎれもなく青春の緑野にうっとりするのです。(中略)
それからの約一年、私はただひとすじに受験勉強に没頭し、35(昭和10)年の春、当時の東京商科大学専門部に入学したのでした。(中略)*
私がモディリアニの絵にめぐりあったのは、その春のことでした。長いこと少年時代を夜学の教室で過ごしてきた者にとって、陽光の中を通学できるということが、どんなに華やいだ心の躍動だったことか。とりわけ、国木田独歩の『武蔵野』そのままの雑木林のまっただ中へ、ぽつんと移転して来たばかりの学園は、教室の中まで緑がみちみちていました。30分近くに一度ぐらいの割で到着する電車からこの緑の中へ躍り出た学生たちは、誰一人として駅前の幅広い学園道路などは歩む者がなく、思い思いに林の樹木の間を縫って、教室へと向かうのです。
そんなけもの道でさえも辿ることなく、駅前に出た私たちが先ず顔を出すのが、ほどなく開店したコーヒー店なのです。
なんと、そのころの私たちの心底を見抜いたかの如く、その名も《えぴきゅうる》という店です。
山小屋ふうに、板の間にモザイックな椅子をおいて、ゆったりと腰をおろした頭の上30センチほどの高さに、簡素な細縁の小額がずらりと並び、その十数枚の絵が、すべてモディリアニのクロッキーでありました。
そんなえぴきゅうるの花園に踏み込んで、ずらりと額縁に視線を走らせ、指一本たててコーヒーを注文し、どっかりと木椅子に腰をおろした一瞬に、私たちはまぎれもなくエピキュリアンに変身するのでした。 (中略)
とにかくエピキュリアンに変身した私たち当時の学生にとって、もう欠くことのできない絵でした。とりわけ私の仲間たちは、上原専禄・増田四郎・板垣与一などの若い教師たちも含めて、学校へ通うとは、とりもなおさず《えぴきゅうる》へ通うことでした。
その部屋の、その椅子に腰をおろしさえすれば、モディリアニはまぎれもなく私たちの同時代の不可欠の構成要素でありました。
その後にどんな悲劇的な歴史が待ち構えていたにせよ、私たちはカモシカの如く自由であり、モディリアニは心踊る仲間でした。 (後略) (「一枚の繪」 1988・5(200号記念号))より

「青い眼の女」の前で
(2010年、パリ市立近代美術館)