今年、ある方からいただいた年賀状の中にこんな一文がありました。
“『一九八四年』の世界が日本に訪れました” ───
その本を書店で探しました。
『一九八四年』。ジョージ・オーウェルが1949年に発表。書店で見つけた高橋和久氏訳、ハヤカワ文庫版(新訳版)の帯にはこう書かれていました。 「真実」が政府によって覆い隠される今の時代。国民がそれを黙認するとどうなってしまうのか。この本を読むとわかります。 このところ、『一九八四年』のことがしきりに思われてなりませんでした。
そんな時に、朝日新聞の記事に出会ったのです。
日曜に想(おも)う 編集委員 福島申二(3月18日付)
“ 思い起こした 『一九八四年』 ”
(前略)
あまりに露骨な書き換えに、全体主義国家の恐怖を描いたジョージ・オーウェルの傑作『一九八四年』を思い起こした人もいたようだ。小説の主人公は「真理省記録局」という部署に勤めている。政府の都合と主張に合わせて過去の新聞記事を改変するのが仕事である。
たとえば独裁者が世界情勢の見通しを語る。それが現実にならなかった場合には、現実に起こった通りに語ったことにして書き換える。つまり、すべての過去を現実の状況に合致するように変えていく。刊行物、映像、統計などあらゆるものを改ざんして、「真実を管理」し、独裁者を絶対化するのである。(後略) 「安倍一強」をこのままにしておいてはいけないのです。
父がいたら何て・・・・・・。
私は今日も父の言葉を探しています。
庭の白蓮が満開です。
父の命日が近づいてきました。 2018.3.28 荒井 きぬ枝
〔付記〕日本の民主主義が、どうやら多数決民主主義という小学校の教室にも似た図式へと落着した昨今、自民党と公明党が賛成しさえすれば、「何でもまかり通る」という国政の図式が急速に深まりました。そんな無力感を諫めるかのように、全国各地で所在の識者が「呼びかけ人」となり《憲法九条》を守りぬこうとする大衆的集会が、津波のように広がりつつあるのが昨今の状況でしょうか。
そんな状況をも冷然と見送りながら、内外に末広がりに拡大してゆく国政の凋落ぶりに対処している日本政界・財界の無能ぶりこそは、当代の社会現象と言うべきでしょう。
じつは、こうした社会現象こそがファシズムそのものであるという認識が、私のような戦中派の歯ぎしりなのです。戦争か平和かではなく、私たちはどっぷりと戦争のまっただ中にあり、世はテレビ映りの良いファシストどもの支配に委ねられている。そんな時流なればこそ、あのフランスの抵抗者(レジスタンス)の若者たちが誠実に、いのちをかけて吹き鳴らしたような「起床ラッパ」が鳴りひびく時を迎えているのに違いありません。耳を澄ましたいものです。『地には豊かな種子を』(2006年刊)第一部6章「人間の誇りを守る時」より
新訳版 2017年早川書房刊
2012年4月13日、父が亡くなった日に満開だった白蓮
今年は例年より早く咲きました。