アンデルセンの『裸の王さま』について、父はよく語っていました。 誰もが知っているアンデルセンの『裸の王さま』という童話は、近ごろ格別に私たちの心に甦る。気取り屋の王さまのごきげんを取るために、腹ぐろい仕立屋が「透明」な服を献上する。それを身につけた王さまが町へ出かけると、心得た臣下や町民がうやうやしく賞めたたえるのだ。が、ひと声するどく「やあい、王さまはハダカだ」と叫んだ者がいた。
子ども心は、ぴたりと真実を言い当てた。どんな巧言も令色も、あっけなく刺しつらぬく童心のみごとさ。もちろん、その子は捕らえられ、処罰された。けれども真実を叫んだ太陽の明るさは、末長く人びとを勇気づけている。 (後略) (『昭和時代落穂拾い』“王さまはハダカだ” より)
“何を子どもたちに贈る?”と題された記事(1986年9月10日 赤旗)には (前略)
戦争責任を自分たちの手で始末できなかったこと、自分たちが何かにつけ経済主義のとりこになり、利己主義に陥ってしまったこと──この生き方、考え方が変革されない限り、またも子どもたちが戦争の論理、競争原理を信条とする利己的な体質を身につけてしまう。
そうしてはならない。その思いが、創作児童文学出版の道へ私をかり立ててきたのです。
世の中には、“多数決という名の独裁制” が姿を現し、児童文化の世界にまで商業主義が根を張りめぐらせています。
現状が危機で、やりきれないものであればあるほど、子どもたちに真向かう心を失いたくないですね。アンデルセンの「裸の王さま」で子どもが「なんだい!王様は裸じゃないか!」と叫んだように、勇気をもってさわやかな声をあげていきたいものです。(1986.9.10 「一九八六年の秋にー続・黙ってはいられない」より)
同じ年の2月には、当時の国家秘密法(案)に反対する立場から、以下のように語っています。 「王様は裸」と指摘できるマスコミを―青年の心をとらえることなしに勝利なし (前略)
今、一番重要なことは、一人ひとりのくつ音を聞くような立場で、“王様は裸だ” と真実を叫んだアンデルセン物語の幼い主人公のような立場を、マスコミが、その主柱として確立しないと、現在のような情報化社会の中では、アッという間に、“美談”(注)を作り、アッという間に、通してはならない喜劇のような法律を通してしまうことになるのです。
国家秘密法のような悪法とたたかうには、スタンドで興奮する観客のようにフィーバーする立場でなく、今、スクラムをいっしょに組んでいるマスコミの皆さんが、私たちの前には “何があり”、私たちの後には “何があるのか” しっかりと歴史を見据え、足音をたしかめながらたたかっていかなければならないと思うのです。 (後略)(「出版労連」877号、1986年2月21日より)
(注)“美談”
爆弾をかかえて敵陣に飛び込んでいくという美談、そんな軍国の美談がじつに無惨な出来事であったという“真相”を知るのに、私たちは何十年という時間がかかったのです。(前述) 日本の現在(いま)と重ねながら、父の遺した言葉をかみしめています。
スクラムを組んで「王さまは裸だ!」という勇気を・・・・・・。2018.4.25 荒井 きぬ枝

父が若い頃に読んだ、岩波文庫の「アンデルセン童話集」(岩波書店 昭和14〜17年刊)
投稿者: エディターズミュージアム
詳細ページ -
コメント(0) |
トラックバック(0)