『千曲川』第二部。
東京商科大学で父の後輩だった “岸井くん” が登場する部分を読み返しています。
“岸井くん” は亡くなられた岸井成格さんの実のお兄様です。
岸井成格さん。一度お目にかかってそのお兄様と父のことなど、お話させていただきたかったと、悔やまれてなりません。
ジャーナリストとして常に “権力を監視する” という姿勢を貫かれた方でした。
大切な方を失ったと思っています。
先日、東京で文化座の芝居「夢たち」(三好十郎作)を観てきました。いつもご招待いただくのです。
パンフレットに、この芝居に寄せた河野孝さん(演劇評論家)の文章がありました。 (前略)
世間の表舞台からはじき出されたような者たちが集まっている。ある意味ゴーリキーの向こうを張った三好十郎版の「どん底」だ。
敗戦から七十年が経ち、これまで以上に生きにくくなっている今の世の中を鋭く照射する舞台に仕上げてくれることを確信している。(後略) この部分を読みながら、父が「どん底」についてよく語っていたことを思い出したのです。
その文章はどこだったかしら・・・・・。
見付けました。
『千曲川』に登場した “岸井くん” に父は「どん底」について語っているのです。
“岸井くん” と「どん底」───。
私が求めていたものを、父が結びつけて、示してくれたのだと思えてなりません。
「どん底」のサーチンのセリフをよく真似ていた父。
“人間っていいもんだ” ───。
ともすれば希望を失いかねない現状の中で、サーチンのセリフが、父の声が、私を励ましてくれます。2018.5.17 荒井 きぬ枝
(前略)
久しぶりに研究部の部室に現れたぼくを見るなり、先ず一年生の岸井くんが声をかけた。
「どうしたんですか、何だか良いことでもあったような顔してるじゃないですか?」
「ああ、良いことがいっぱいなんだよ。タワーリシチ!」
「なんですか、そのタワーリシチってのは?」
「ロシア語で、同志っていう意味・・・・・・おれ、第二外語をロシア語にしたからね」
「へええ、今どきロシア語を選択する人なんて、いるんですかねえ!」 (中略)
「あの毎日新聞の岸井寿郎氏が、君のお父さんなの?・・・・・・でもね、ぼくのロシア語志望は、ちょっと違うの。たとえばだよ・・・・・・」
そう言うなり、ぼくはポケットから薄っぺらな岩波文庫の一冊を取り出すと、その数日暗誦するほどに繰り返して読んでいるゴーリキーの『どん底』のその部分を、たちどころに開いて読み聞かせた。
《にいんげえん! どうだ、てえしたものじゃねえか! じっさい豪勢なるひびきがするじゃねえか! 人間は尊敬しなくちゃならねえよ! 憐れむべきものじゃねえ・・・・・・
憐れんだりして安っぽくしゃちゃならねえ!・・・・・・尊敬しなくちゃならねえんだ!》
(中村白葉訳)
『どん底』第四幕で、この登場人物たちの中で殆ど唯一のまともな錠前工のサーチンが、じっさいに空間に巨大な人間像を描きながら「にいんげえん!」と叫ぶように語るくだりを、ぼくもじっさいにやってみせながら、その場の一年生たちに対してつづけた。(後略)(『千曲川』第二部 青春彷徨 第九の章 君にとって国家とは より)
「民芸の仲間」劇団民芸創立10周年記念 1960年3月7日(日)
父の自筆で、観劇の日が記されています。