京都への途中、近江八幡に近い石塔寺(いしどうじ)を訪ねました。
20年以上も前に父と行った思い出があります。どうしても探して行きたかったお寺です。
父はなぜ、そのお寺を知っていたのか────。
なぜ、母や私をそこへ連れていったのか───。
石塔と石仏がぎっしり並んでいた風景がしきりに頭に浮かんできます。
まん中に異国風の三重の塔がありました。朝鮮半島、百済からの渡来人が故郷をしのんで塔を建てたのだそうです。
“石塔寺” という名前は今回やっと知ることができました。父と一緒に行った時の写真が手がかりでした。そしてとうとうある文章にたどり着いたのです。 「最後の石段を登りきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、生涯忘れることができないだろう」。
「ぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようだった」。司馬遼太郎 “歴史を紀行する” 文芸春秋 1976年刊
確かに父はこの文章を読んだのだと思います。
中野署でボロくずのようになぐられた17歳の父を抱え込んで、一緒に泣いてくれた金さん。
けれど、二度と会うことが叶わなかった金さん。
そうだ、わかったお父さん、金さんに会いに行ったのね───。
石塔寺のあの三重の塔の前に立ち尽くしていた父の姿を思い出しています。2018.9.5 荒井 きぬ枝
涙の流れ方
ボロくずのように殴られた少年の体を股の間に抱え込んでくれたのは金さんであった。しばらくすると、私の頭のてっぺんが熱くなった。熱い雫は、私のうなじを伝い頤を伝い、胸元へと流れ込んだ。人間が、こんなにも沢山の涙を流すものか。涙とは、こんなふうに流れ伝うものなのか。回復する意識の底で私は考えながら味わっていた。
(中略)
あれから六十年も経つというのに、毎朝ヒゲ剃りのたびに金さんが甦る。なるほど人間の毛はてっぺんからの雨の流れに沿っているんだなあ、と感心しながら逆剃り順剃りを楽しむ。その金玲ヨン氏が、後に朝鮮民主主義人民共和国の文部大臣に当たる地位についていた、と教えてくれたのは、未来社の西谷能雄社長である。西谷さんと金さんとは外語時代の同窓であり、戦後最初の北朝鮮への訪朝出版人代表として西谷さんは金さんと会ったという。(後略)
(『昭和時代落穂拾い』1994年 週刊上田新聞社刊 より)
*金玲ヨン氏のヨンは金ヘンに庸
石塔寺にて