こどもたちは、こんなにも、こんなにも、“心の作業” をしているのですね。 びょうき ぼくにくれ
2年 にしもと こうぞう
先生、しんどいか
しんどかったら
いつでも、びょうきぼくにくれ
ぼくはしんどかってもよい
先生がげんきになったら
ぼくはそれで
むねがすーとする(『せんせいけらいになれ』灰谷健次郎著、理論社刊より)
『せんせいけらいになれ』。
初版は1965年です。
児童詩誌『きりん』に連載されていた「詩のコクバン」が一冊の本になりました。
灰谷さんが書かれた“あとがき” です。 (前略)
この本は詩の本というよりは、心の本としてかきました。ぼくといっしょにくらした子どもたちの、たましいのきろくとしてかきました。ですから、子どものみなさんによんでもらわなくてはならないことはもちろんですが、それにもまして、おとなの人たちに、よんでもらいたいのです。
すこし、いばっていうなら、せいじかや、やく人によんでもらいたいのです。学校のせんせいにもよんでもらわなくてはなりません。おとうさんやおかあさんたちにも、ぜひ、よんでもらいたいと思います。(中略)
この本はぼくがかいたのにはちがいありませんが、ほんとうは子どもがかいたのだと思っているからです。子どもたちのうそのない声のかんづめが、この本だと思うからです。(後略) 初版刊行後、何年かが過ぎて、父のもとに灰谷さんからの手紙が届きました。 もうわすれておられるかもわかりません。5年前に『せんせいけらいになれ』を出していただいた灰谷です。この手紙をかいていて、ひどく心が痛みます。
「きりん」の手助けもせず、仕事もせず、一年半ほど前には学校もやめてしまいました。
小宮山さんや足立さん(*)にどんなにおしかりをうけても、ことばがありません。
(中略)
四百五十枚の作品を精いっぱいかきました。うしろにさがれない気持ちで力いっぱいかきました。ご温情をうらぎったような生き方をしておいて、ずうずうしいおねがいですが、いま一度お許しをいただけませんか。
(中略)
これが児童文学として通用するかどうかわかりません。そういうことを考える余裕はまったくありません。ぼくは今ぎりぎりです。そのぎりぎりだけをかきました。
みていただけませんか。いま清書しています。
許していただけたら持参します。
祈るような気持ちでこの手紙をかきました。 灰谷 生
(*)足立巻一:小説家・詩人「きりん」の編集に参加
こうして『兎の眼』の原稿が父のもとへ───。
『兎の眼』は、1974年に刊行されました。
『せんせいけらいになれ』が新装版として甦ったのは、その3年後。1977年のことです。
灰谷さんはあらためて “あとがき” を書かれています。
チュコフスキーさんに捧げた父の言葉を引用されたあと、こう続けられています。 (前略)
子どもが独創的な思想家であるということは『せんせいけらいになれ』の子どもたちが見事に証明してくれています。
子どもたちの発言は、ぼくたちの中にあるよこしまなもの、腐敗したものを鋭く打つのみならず、彼らは未来像さえ、さししめそうとしています。
(中略)
ほんとうに、あなたたちに対しては、教えることより学ぶことの方が多かった───。
たった一冊の本の中にある大きな宇宙は、ぼくを力づけ、勇気を奮い立たせ、ぼくの目をしっかり前に向けさせてくれたのでした。
いつの日か、ぼくが確かな児童文学作品を残すことができたなら、それは、すべてこの本から流れ出た美しい魂の結晶であることを、今ここに宣言しておきます。 (後略) 『太陽の子』はこの “あとがき” の一年後に刊行されました。
こどもたちと一緒に歩んだ灰谷さんの歴史です。
こどもたちとともに歩む───。
その大切なことが忘れられています。
こどもだった自分が、かってどのような“心の作業”をしていたか・・・・・
どうか思い出してみてください。
こどもたちの“心の痛み”にどうか気づいてあげてください。2019.2.13 荒井 きぬ枝

( 写真右)1965年の初版 絵:福田庄助
(写真左)1977年の新装版 絵:坪谷令子「子どもの魂をそのまま表出したような見事な絵を描いてくださった」───と、“あとがき”に坪谷さんへのお礼のことばが・・・・・。