あの時と同じ風の匂い、あの時と同じやわらかな陽ざし───。
父の最期に寄り添った7年前の3月がしきりに思い出されるのです。
「死」を覚悟したと思われる父を受け止めかねて、それでも受け止めなければと
泣きながら歩いたのは、こんな風の中だった、こんな光の中だった───と。
「ちっともいい世の中にならなかったね」
亡くなる何日か前に母に語りかけた父の言葉がずっと私の心に残っています。
「お父さん、あれからね」───、それからのことを父に報告しようとして、次の言葉がみつかりません。
毎日耳をふさぎたくなるようなニュースが続きます。
何故人間はここまで「劣化」してしまったのか───。
父に訊ねたくて、『回帰』について書き遺した父の文章を読み返しています。
“進みすぎて” 私たちは何かを失ってしまったのだと思えてならないのです。2019.3.13 荒井 きぬ枝
回帰時代の幕開け
新しい年(93年)の初めにあたって、わが《落穂拾い》への心構えを、改めて確かめておきたい。私自身は喜寿を迎える老人なのだが、そんな老人ならではの回顧談をひけらかすような思いは全くない。
ただこの生涯をかえりみると、自他ともに余りにも急速に遠くへ来てしまったような思いがしてならない。子どものころ、「あの町この町、日が暮れる・・・・・・」と口ずさんだ夕暮れの、途方にくれたような侘しさが惻々と湧くのだ。
引き返すなら今だ。今のうちなら間にあうかも知れない。もしかすると現代文明は、そんな反省を迫る極限にまで来てしまったような気がする。
例えばクルマ社会である。その便利さが、過去のどんな大戦争よりも多くの死傷者を年々生みだしている。コンピューター社会的な競争原理の支配下に、どんな独裁体制をも凌ぐ人間性の喪失が深まる。数カ国が強大となる反面では、多くの国ぐにに恐るべき飢餓が発生している。
・・・・・・ある夜、うなされたように「回帰」について考えた。前進する世界観より、回帰する勇断こそが、現代の哲学ではないのかと思った。
余りにも人間不信を増大するかのような最近の国情などに疲れ果てたあげく、わが精神はひたすらに回帰を願うのかと疑ってもみた。眠れないままに枕元の和英辞典(小学館版中型)を引いてみたりした。
回帰=kaiki・・・思わず私は輝き、頭の芯がしぃんと冴え渡った。その項の第一にはRevolutionとある!
そうだったのか。回帰こそ「革命」であったのか。私の眼に中学生のような歓びの涙がにじむ。辞典を引く楽しさが衝き上げてくる。
その夜明け、私は「回帰時代の幕開け」と題する出版界への年頭のあいさつの小論を記すことができた。そして引き返す勇断について、わが故郷の人びとに対しても一層語りつづけねばならないと意を決した。 (『昭和時代落穂拾い』1974年 週刊上田新聞社刊 より)

「文芸読本トルストイ」(1980年 河出書房新社刊)
亡くなる直前のある日、この本を持ってきて欲しいと父に言われました。
その中にあった『イワン・イリイチの死』。死の恐怖の中で、主人公イワンは残される家族の悲しみに思い至ります。
その瞬間に痛みや恐怖から解放され幸せな最期を迎えます。
「死」を迎える時が来たら、父はこのイワンのようでありたいと秘かに願っていたのでは・・・・・と、
私は思いをめぐらせています