“医者、用水路を拓く───国際協力の24年。アフガンで水を求めて──
こう題された中村先生の講演会が、須坂のメセナホールで行われたのは、2008年5月24日のことでした。
主催は九条の会の方たちが中心となって立ち上げた「中村哲先生講演会実行委員会」。
共催が信濃毎日新聞社でした。
父と家族、そしてエディターズミュージアムのスタッフ一同とともにその講演会に出かけて行った日のことがよみがえってきます。
「必要なのは爆弾ではなくパンと水」───。
中村先生のことばは今でも心に深く刻まれています。
この講演会に寄せた父の“すいせんのことば”が遺されています。
中村先生が作家火野葦平さんの甥であることを踏まえ、火野さんとの交流のあった父ならではのことばです。
最後に記した『合掌』に、父は中村先生への敬意と祈りを込めたのだと思います。 すいせんのことば 小宮山量平
徳は弧ならずと申しますが、先生のご活躍の芯には、作家火野葦平氏以来の日本人の侠気(おとこぎ)の脈動が伝承されていて愉快です。
手と手を握り合うだけでなく、心と心を固く結び合える、熱い人脈を、不屈に、太く永く、続けて下さるように、両手(もろて)を挙げて、先生の後につづきましょう。合掌
2008年10月に刊行された冊子「たあくらたあ」には、父へのインタビュー記事が掲載されています。
ペシャワール会の伊藤和也さんが凶弾に倒れたのは、中村先生のお話をうかがってから数ヶ月後のことでした。
インタビューの最後に父は無念さを込めて語っています。
中村先生を失った今、私たちはまたその無念さの前で立ちつくしているのです。2019.12.18 荒井 きぬ枝
(前略)
ご存知のように、アフガニスタンで支援活動をしているペシャワール会の伊藤和也さんが亡くなった。非政府組織のペシャワール会は、戦争の中で日本人が素晴らしい活動をなしえたという例だ。
その世界平和を実現するための尊い犠牲が伊藤さんだった。ところが、日本は国を挙げてこれを悼むという統一的な力を生み出せないでいる。アメリカのテロ対策に追随しているようでは、伊藤さんの死も無駄になってしまう。
伊藤さんの死を日本人一人ひとりが悼まなくてはいけない。ロウソクに火をつけて上田の街に5000人のデモがあってもいいし、長野の街では1万人のデモが起こってもいい。そこに日本人の統一体質というものが生まれる可能性が見えてくる。
伊藤さんの死を悼むという、そういう時勢への見る目が生まれなければ、日本人は未だ居眠りをしているようなものではないのか。
一人ひとりが自分の足で立って、自分の頭で考えて、正義感や燃える思いを持ち、青春の思いを持つ。それこそが平和の活動だ。(「たあくらたあ」Vol.15(2008年10月)“戦争はいつ終わるのか?”より)

信濃毎日新聞に掲載された講演会のお知らせ
右下に父の“すいせんのことば”