岩波ホールの総支配人でいらした高野悦子さん。
毎年暮れになると高野さんから父あてにおいしい赤ワインが送られてきました。
「ほら、高野さんのワインだよ」───、
うれしそうにしていた父の笑顔がよみがえってきます。
岩波ホールは1968年の2月にオープンしました。
記念講演で野上弥生子さんはこう述べられたそうです。(「エキプ・ド・シネマ」高野悦子編 1984年講談社刊より)
「・・・・・この小さなホールで行われるものは、講演にしろ、お芝居にしろ、音楽会にしろ、また映画のようなものにしろ、ほんとうに最上級のもので、どこへいつ持ち出しても、何千何万の人がこぞって感動する──こういうものを上演してもらいたいと思います。神田のこの一郭のホールを学問、文化、芸術の、可愛く小さいが、どこにもないような独特の花園に育て上げてもらいたい・・・・・」 やがて、1974年にはその岩波ホールで「エキプ・ド・シネマ(映画の仲間)」の運動がはじまります。
当時、神田神保町にほど近い所に住んで子育て中だった私は、岩波ホールの前にかかげられた大きな看板を見上げながら、「観たいな、観たいな」・・・・・と思いながら、乳母車を押して通り過ぎていました。名画が続いていました。
『ピロスマニ』の看板がかかげられた時は、ちょっと誇らしかったものです。
パンフレットに父の解説が掲載されていたのです。
子育てを終え、映画館に行くことが可能になってからは、岩波ホールをはじめ、あちこちのミニシアターで数えきれないほどの映画とめぐり会うことができました。
『映画(シネマ)は《私の大学》でした』───、 父の最後のエッセイ集となった本の題名。
秘かに私もそう思っています。
2018年2月13日付の朝日新聞の記事です。
“ミニシアターの先駆者として−岩波ホール開館50周年”
長く企画・宣伝を担当されていらした原田健秀さんのことばで記事は結ばれています。 「一過性の娯楽ではなく、古典の本のように、繰り返し見られる古びない作品を紹介したい。上映作を通じて、今の社会の分断や格差、対立について考え、その流れにあらがいたい」 今、コロナ禍の中で、ミニシアターのみでなく多くの芸術活動が苦境に立たされています。
ドイツのグリュッテルス文化相はこう発言されています。
「アーティストは今、生命維持に不可欠な存在」
「皆さんを見殺しにはしない」
ドイツ政府は文化分野での緊急支援措置を公表しています。
ひるがえって日本は・・・・・・。
布マスク2枚で国民の不安を取り除く?
揺らぎっぱなしの政策に不安は増すばかりです。
この国の姿勢が問われています。
“現代哲学としての映画芸術───岩波ホール/エキプ・ド・シネマの30年” という文章がパンフレットに掲載されました。(2003年「夕映えの道」)
インドのサダジット・レイ監督の「大樹のうた」の公開からエキプ・ド・シネマを見守ってきた父。
赤ワインは、そんな父への高野さんからの感謝を込めた贈り物だったのですね。
2020.4.22 荒井 きぬ枝

岩波ホールで上映された映画のパンフレット
このミュージアムには50冊ほどが残されています。