4年前、2016年の7月7日に亡くなられた永六輔さんのことがしきりに思い出されます。
次女の方が悲しみの中で語っていらしたように、天の川を渡って最愛の奥様に会いに行かれたのですよね。
エディターズミュージアムのオープンは、今から15年前の7月9日でした。
前日の7月8日にはオープン記念の父の講演会が行われました。
ちょうど15年前の今日だったんですね・・・・・。
2003年の暮れに近い頃、「計画書」を最初に見ていただいたのが、灰谷健次郎さん、そして永六輔さんでした。
おふたりは翌年の父の誕生日に合わせて、ミュージアムの構想へのエールを込めて上田へ駆けつけてくださり、講演してくださったのです。
開設したミュージアムで、「ほんとうにいい場所ができた」───、そう喜んでくださった時の灰谷さんの笑顔が忘れられません。
2006年に灰谷さんが逝かれたあとは、永さんがしっかりと支えてくださいました。
「大切な場所です」──、そうおっしゃって。
15年が経った今日、自身で記した「計画書」を読み返してみました。
多くの方々に支えていただいた日々に思いを馳せています。
そして、長い間惜しみなく力を貸してくださっているスタッフの面々には心からの感謝を・・・・・。 計画書
■ ごあいさつ ある日、父が私に語りはじめました。
「日本の若者たちのために、今作りたい本があるんだ」
トルストイの作品を含めた全十巻のシリーズ。
その題名と作者名を並べながら、こんな装丁で、こんな挿絵で・・・・・と、あたかも出来上がった本が目の前にあって、それらをいとおしんでいるかのような父の話ぶりです。
“ああ、父は生涯編集者なんだ。父の心の中では編集者としての魂の炎がまだこんなにも揺らめいている・・・”
「メモをとっておくれ」という父の言葉に鉛筆を走らせながら、秘かに温めてきた思いが、その時突然ある決心となって私の心に沸き上がってきました。
“そうだ「小宮山量平の編集室」をもう一度甦らせてみよう・・・”
東京神田神保町、古本屋の二階の編集室。
その後の三崎町、小さなビルのやはり二階にあった編集室。私の記憶の中で、父はいつもたくさんの本に囲まれ、机の上には日本中から送られてきた原稿がうず高く積まれていました。その編集室で、精魂込めた作品を手に父と向かい合っていた若き日の作家や画家たち・・・。
“出会いから本が生まれた”・・・・・父の言葉です。
その出会いは今、父のかけがえのない財産となっているばかりでなく、それら幾多の出会いをたどる時、そこに、日本の戦後の出版史が、ほの見えてさえくるのです。
私の決心を聞いて、父は「そんなことはいいよ。」と少しはずかしそうに言ったものです。けれど翌朝、一片の紙切れが私に託されました。
「こんな名前はどうかな。」・・・・・・その紙切れには父自身の手で“Editor's Museum”と書かれていたのです。 ■“Editor's Museum”───[編集者のミュージアム]
87歳になった父が、今また新たな夢を持とうとしている・・・・・・そう思った瞬間、決心は私の心の中で動かないものとなりました。
昭和22年(1947)、理論社創設にあたって父がかかげた言葉、ノヴァーリスの
《同胞(とも)よ 地は貧しい われらは豊かな種子を 蒔かなければならない》
そして昭和34年(1959)、初めて創作児童文学の作品を世に送り出した時の父自身の言葉、
《自分の脚で立ち、自分の頭で考える 自立的精神の成長を願って・・・》
今この時代にあって、これら二つの言葉は新たな重みを持って胸にせまってくるのです。
一編集者、一出版人の軌跡をたどりながら、その思いを伝え広げていく場所を持ちたいと考えています。
父の生まれたこの町が、いつか「創作児童文学のふるさと」となり、やがて「出版文化のふるさと」になりうるかもしれない・・・・・。その思いを込めて、父の子供である私たち兄弟姉妹が小さな輪を作りました。その輪をこれから少しずつ丹念に大きな輪にしていきたいと思っています。
「Editor's Museum」への第一歩を今踏み出します。
ご賛同いただけましたら幸いです。
2003年11月 荒井 きぬ枝(小宮山量平・長女)
2004年6月1日 米寿記念講演
永さん(左)、灰谷さん(中央)が構想へのエールを・・・・・。

2005年7月8日 ミュージアムオープン記念のお祝いの会