2020/8/19
『八月がくるたびに』の絵を描かれた“クマさん”こと篠原勝之さん。
「亡くなった小宮山さんに会いたくなった」──と、2016年の夏、このミュージアムを訪ねてくださった毎日新聞の鈴木琢磨さんは、そのあと篠原さんに会われて、記事の中に以下のように記されています。
(毎日新聞 2016年8月16日付 「特集ワイド 平和よ5 “2016夏 会いたい”−小宮山量平さん」より)
(前略)
スキンヘッドに着流し、「クマさん」の愛称で知られる篠原勝之さん。自らを「ゲージツ家」と呼び、山梨県北杜市のアトリエで鉄を素材としたゲージツと格闘している。小宮山さんの依頼で、長崎の原爆をテーマにした、おおえひでさんのロングセラー児童文学「八月がくるたびに」(1971年初版)の絵を描いた。
「ちまたで暴れん坊してたオレをさ、小宮山さん、すくいあげてくれた。広島や長崎、民主主義の話をしてくれた。止まんねえんだよ。で、原稿を読んで、オレなりに感じたことが絵に出てたんだろうな。悔しさとか、憎しみとか、いろんなものひっくるめて」
(中略)
北海道は室蘭で育った。製鉄の町だった。「戦争のための鉄なんだろうなと思ってただよ。おやじは旧満州(現中国東北部)へ兵隊で行った。
引き揚げてからは戦争について一言もしゃべらなかった。きっと戦争で嫌なことをしたり、見たりしたんじゃないかな。PTSD(心的外傷後ストレス障害)っていうか、戦場から帰ってきた元兵士がおかしくなる、あれだな。乱暴なおやじしか知らないオレにとって小宮山さんは大人に見えた。ササクレだっていたオレに生きる方向を教えてくれた道しるべだったんだな」 (後略)
『八月がくるたびに』を再び開いています。
8月9日、ナガサキに原爆が投下された直後の様子が描かれています。
事実を伝えようとする作者の、そして画家の思いが込められています。
(前略)
はいいろの雲が、むくむくとひろがって、うらかみの町じゅうを、おおっています。
雲の下のくらいそこから、火が、あっちでも、こっちでも、もえあがっています。
ぼうだちになっていた、おじいさんときよしは、いきが苦しく、ひざが、がくがくしてきました。
「おじいちゃん、ほら。あんな。お日さんがあんなに、くろうみゆる」
「うん。これはおおごとじゃ。おおごとじゃ」
おじいさんは、のどをぎくぎくさせて、つばをのみこむ。くらいお日さまはまた、きみょうな雲に、かくれてしまいました。
ふたりは手をつないで、ほそい畑みちを、どんどんかけおります。
おじいさんは、ふと、
「きよし、くつをはいとるか」
「うん、おじいちゃんは?」
「はいとる。あぶなかけんな。足もとに気をつけんばならんぜ」
そのとき大つぶの雨が、ふってきました。くびやかたにあたると、いたいようです。
きよしの白っぽいうわぎが、雨にぬれたところだけ、黒くそまっています。へんな雨。
手でさわると、油のように、ぎとぎとしているのでした。 (後略)
“黒い雨”です。
五年生で被爆、中学生になったまま学校へ行くこともできずに、入院していたきぬえの兄きよしは退院することなく亡くなりました。ノートにこう書き遺していました。
ゲンバクのこんちくしょうは、でたらめの、きまぐれやろうだ。 ぼくは、やけども、なんも、しとらんというても、骨のなかまで、しみこんできよる。
きよしの無念さが、今回の「黒い雨訴訟」の原告の方たちの無念さと重なります。
判決に対して控訴に踏み切ったこの国───。
“なぜ国は弱者に冷たいのか”
信濃毎日新聞8月14日付夕刊『今日の視角』に寄せられた姜尚中さんの文章を今、かみしめています。
2020.8.19 荒井 きぬ枝
(前略)
なぜ、かくも長い間、事実上「ほったらかし」の状態が続いてきたのか。なぜ、こんなに国は弱者に冷たいのか。水俣病、ハンセン病、足尾鉱毒事件、そして「黒い雨」訴訟然り。共通しているのは、国の責任で包括的かつ総合的な検査を実施し、「最大限救済」を目指す、血の通った行政が欠落していることである。
垣間見えるのは前例踏襲と無謬性への異常なほどの拘りであるとすれば、国民に優しい国家など望むべくもないのか。
新型コロナウイルスの不気味な拡大に歯止めがかからず、PCR検査数も飛躍的な増大が望めないままなし崩し的に前例踏襲の感染症対策が続いていくとすれば、その国家統治の「慣性」は、広島地裁の判決を不服として控訴した国のあり方と無縁ではないはずだ。

表紙をめくるとまずこの絵が飛び込んできます。
“クマさん”の作品です。
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/8/7
毎年八月になると、ふと手にとって開いてみる一冊の本があります。
『八月がくるたびに』(おおえひで・作、篠原勝之・絵、1971年理論社刊)。
篠原さんは“ゲージツ家・クマさん”です。
1945年8月9日、長崎で被爆した“きぬえ”が主人公です。
その時、きぬえは五才でした。
八月の明るい庭さきに、キョウチクトウがかげをつくっていました。
ももいろの花びらがこぼれるように散っています。きぬえはせっせと花びらをひろいます。お人形のマルちゃんとおままごとをするきぬえ。
花びらはあかいごはんです。
「きょうはおまつりにしようか」
きぬえはマルちゃんとむかいあってすわりました。
そして、その時───。
この作品の最終章はこんなふうに始まります。
あの日から二十年後の8月9日です。 みどりの木にかこまれた、へいわ公園には、よくしげった、キョウチクトウの花が、まっさかりに、さいていました。
青空と白いくもと、キョウチクトウのももいろの花は、とてもよくにあって、きつい夏の日ざしを、ふと、やわらげてくれます。
きぬえと、山下のおばさんは、こんざつしないうちにと、朝はやくでかけて、むえん仏塔をおがみ、平和像もおがみました。 (後略) 「庭にキョウチクトウを植えるといいね」
父はくり返しそう言っていました。
何故、キョウチクトウ?
父に尋ねないまま、けれどキョウチクトウが気になっていました。
ヒロシマの“復興の花”キョウチクトウ。
そして、『八月がくるたびに』に描かれたナガサキのキョウチクトウ。
父にとって、キョウチクトウは“平和への祈りの花”であったのかもしれません。
『八月がくるたびに』を読んだ小学生の読書感想文に心がふるえました。
子どもたちにかくすことなく事実を伝えたい───。
作者と画家と、そして編集者の思いは、子どもたちの心にちゃんと届いているのですね。
いまさらながら、伝えることの大切さを胸にきざんでいます。2020.8.7 荒井 きぬ枝
青少年読書感想文全国コンクール入選作品
八月がくるたびに
大阪府柏原市立堅下小学校四年 山田幸代
わたしが、この本を読もうと思ったのは、ちょうど八月の中ば頃でした。
本箱を見ると、ちょうど八月が来るたびにが、目に付きました。えらんだわけは、八月だったからだけのわけではありません。中身の八月が来るたびの、来るたびの言葉です。八月に何が来るのだろうと思いながら、この本を読みはじめました。
一九四五年八月九日長さき市の、うら上の町の明るい庭先には、キョウチクトウの花がこぼれるように散っていました。そこへ、とつぜん世界で二番目の原子ばくだんが、落とされたのです。
ある一家の五才のきぬえは、顔と、右手にけがをして病院に、入院して、熱で苦しみました。わたしは、そこまで読んで思いました。わたしたちは、戦争というものを知らない。ただ、父や母に、聞かせてもらうだけでそうぞうもできない。そんなわたしにも、きぬえの気持が少しずつわかって行くような気がしてきました。
キョウチクトウの花がこぼれるように散っていたのは、この原子ばくだんが落ちる不幸を、知らせたかもわかりません。わたしは、戦争時代に生まれたきぬえが、かわいそうだなと思いました。
原子ばくだんを作った人も、空の上から落とした人も、今はこうかいしているかも知れま
せん。自分自身落としたくなかったかもしれないのに、えらい人の命令だったのでしょう。
わたしは、そう思いたいです。
きぬえの兄の五年生のきよしは、クリの枝の下じきになっていました。また、きぬえの母は、家のむな木の下になり火にのまれてしまいました。
きよしはその骨をぼうしに入れ、泣きながら土におぼったのです。
わたしは、五才のきぬえには、こんな事になるとは、思ってもいなかただろうなとますますきぬえの不幸な運命に胸がいたくなってきました。
一年たった八月に、おじいさんが天国にきえていきました。ますますきぬえの心が泣くばかりです。
終戦をむかえきぬえの父が、帰って来ました。きぬえにもやっと幸福が、来ました。
ほっとひと安心するまもなく、きぬえの兄、きよしが原ばく病で、なくなりました。
きよしのノートに「ゲンバクのこんちくしょうは、でたらめの、きまぐれやろうだ。ぼくは、やけども、なんにも、しとらんというても、骨のなかまでしみこんできよる。」
と、書かれてありました。
わたしはここをくり返しくり返し読み、きよしの原ばくへのくやしさがよくわかり、なみだが出ました。戦争を知らないわたし。いつも平和であるように、いのりたいです。
この本を読み終わり悲しみで胸がいっぱいになりました。

父が亡くなった年に、父の願いだったキョウチクトウを植えました。
今では私の背丈の二倍ほどになって、夏に白い花を咲かせています。
きょう、父の写真の横にキョウチクトウをかざりました。
「お父さん、見てる?」
投稿者: エディターズミュージアム
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