エディターズ・ミュージアム「小宮山量平の編集室」での日々のできごとをお伝えするページです。
2020/9/30
「灰谷さんからの手紙」と題した父の講演会が行われたのは、灰谷健次郎さんの一周忌をまえにした2007年11月17日でした。 (前略)
「子どもに教わるという灰谷さんの考え方は、彼がいない今こそ大切」と訴えた。
ミュージアムで展示中の灰谷さんからの手紙などを示して親交も懐かしんだ。
(中略)
「ただ知識を与えたり、知能指数を計ったり比べるようなことは決して教育とは言えない」として、全国学力テストなどを批判。灰谷さんに対して、「『君は死んでるわけにはいかないよ』と言いたい」と締めくくった。(信濃毎日新聞の記事より) この講演に合わせて、信濃毎日新聞社の記者さんが、取材に来てくださいました。
その記事を読み返しています。 灰谷さん「青春問答」の手紙
―作品創作の苦悩 上田で40通公開
―小宮山量平さんと30年余―
「ぼくは今ぎりぎりです。そのぎりぎりだけをかきました。みていただけませんか」
1973年(昭和48)年7月、『兎の眼』の草稿を清書していたころの一節だ。
小学校教師だった灰谷さんは以前から、理論社発行の児童詩誌「きりん」に学級文集などの詩を寄稿。しかし、当時は1年余り前に教師を辞め、沖縄などを放浪していた。
「生きてきたことの傷、文学の上での傷が、いちどに吹き上げてきて、そういう生き方しかできなかったのです」
この手紙をきっかけに『兎の眼』は74年に出版され、灰谷さんは本格的な作家活動へ。手紙は、その後も届いた。原稿用紙や便せん、和紙などに書かれた文章は、一枚の時もあれば十枚以上にわたることもあった。 「灰谷さんは壁を相手にキャッチボールをするように、僕に思いをぶつけてくれた」。
手紙を読み返して小宮山さんは振り返る。「人間が成長する過程を青春と呼ぶなら、これは灰谷さんと僕の『青春問答』だと思う」
「うなるばっかりでなんにもかけないです」(73年9月)
「百冊ほどの児童書を買って読んでみました」(74年1月)
「過程での創造、この側面をなぜもっと大切にしなかったのか、くやしい思いです」(74年2月)
やりとりには、こうした苦悩や試行錯誤も率直につづられる。 (後略) そうか、“青春問答”だったんだ───。
『兎の眼』が出来上がったときの灰谷さんからの手紙です。 きのう『兎の眼』を送っていただきました。ぼくは甘いものはきらいなのですが、どういうわけかアズキとアズキ色は好きで、ぐうぜんなのでしょうが本がその色でしょう。ちょっとおどろきました。
(中略)
なにはさておいて心からありがとうをいわせてください。本を出していただいたというお礼ではなく、どういったらいいか、ぼくがある決心をして歩きはじめようとすると、道のようなものをそっとさししめして後はにこにこ笑っておられるようなそんな眼にたいしてお礼がいいたいのです。
それはひじょうにあたたかいものだけれど同時にすこしも甘えることの許されないもの、そんなふうにも理解しています。
大切にしようと思います。どうすることが大切にすることなのか、もちろんさまざまに考えてみるつもりです。 (後略)(1997年4月) “青春問答”をくり返してきたふたり。
2004年に食道がんがみつかった時にはこんなやりとりが・・・・・・。 小宮山量平 様
まるっきり不意打ちの食道がんでした。
永六輔さんのつてで、ひじょうに優秀な医師の手術を受け、順調に回復していますのでご安心ください。
回復が早かったのは、医師の腕(手術は最短の三時間ほどでした)、わたしの体力、精神的動揺がなかったことなどが影響しているようです。
がんですから再発ということがあり、油断はできませんけれど、とりあえず命拾いをしたというところでしょうか。
ご心配してくださっていると思い、真っ先にお便りしました。
新聞連載が中断でななく、中止となり、これは少々残念ですが、元気になれば書下しという手もあり、それほど気に病んでいません。
(中略)
二月の中旬から末にかけ熱海の海の見える新しい家が完成しますので、そこでゆっくりするはずです。
温泉もあり、小宮山さんもぜひ一度遊びにきてください。
がんの告知からちょうど一ヶ月、こうして手紙のかけるのが夢のようです。
(夢は夢でも悪夢か?)
みなさんによろしくお伝えください。とりあえずご連絡まで。灰谷 健次郎
父は受け取ったその日のうちに返事を書いています。 つつしみて
窓外の雪の降り積む音までが、しんしんと聞こえるような今年の年の瀬の閑かさの中で、掉尾の速達便を拝受しました。
次々と患者さん(*灰谷さん)の方から詳細情報が拝受できましたので、ずいぶんと平静に経過を伺うことができて、私もカミさんも、胸を撫でおろしながら合掌することが叶いました。先ずはご退院までの過程を祝着と存じあげましょう。けれどもこれからがほんとうの勝負どころ。
(中略)
肉体での健康も去ることながら、進行中のご労作に漲って(みなぎって)いる充実ぶりの見事さを感取させられるにつけ、この調子の持続をこそ大切に、ともうしあげずにはいられません。
(中略)
意外にも新居の計画などを伺いますと、あなたに於ける「不屈さ」、「逞しさ」を感じさせられ、くれぐれも過信によるご無理だけはお気をつけて、と老爺心を募らせるばかりです。
どうやら良き作品のための着地点に落ち付かれる日が見えて来て楽しみにしております。
ご自愛を! とんしゅ2004年12月30日の夜に 小宮山量平
“青春問答”は灰谷さんが亡くなられる二ヶ月前まで続いていました。
最後となった灰谷さんからの手紙(2006年9月16日消印)にはこんなふうに記されていました。 (前略)
自分の命は自分だけのものでないことは、じゅうぶんわきまえているつもりなので、可能なことはなんでもやってみる努力はしています。その点はご安心ください。
病人のわたしががいうのはヘンですが、お体だけはくれぐれも気をつけてください。
どうぞ、みなさまによろしくお伝えください。灰谷 健次郎
コロナ禍の中、相次ぐ自死の報道が胸にささります。
“自分の命は自分だけのものではない”
灰谷さんが最後に遺された一節を、今心の中でくり返しています。2020.9.30 荒井 きぬ枝

灰谷さんの手紙を読む父(新聞記事より)
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/9/30
田島征三さんからお知らせをいただきましたので、みなさまにもお知らせいたします。 田島征三展 ふきまんぶく
−それから、そして、これから
時:2020年9月4日(金)〜11月30日(月)
場所:安曇野ちひろ美術館 ☎:0261-62-0772 (HP:chihiro.jp )
〒399-8501 長野県北安曇郡松川村西原3358-24
開館時間:10:00〜16:00(休館:会期中毎週水曜)
入館料:大人900円 田島征三『つかまえた』全国縦断原画展 ■長野県
時:2020年9月26日(土)〜10月11日(日) 10時〜18時 会期中無休
場所:茶房 読書の森 ☎0267-25-6393
長野県小諸市大字山浦5179-1
(https:kp2y-yd.wixsite.com/gh-dokushonomori)
★ 10月4日(日)13:30〜 田島征三のトーク
会費 1,000円 要予約
尚、NHK Eテレ「日曜美術館」で田島征三特集が放映されます。
時:10月4日(日) AM 9:00−10:00
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/9/25
「日本読書新聞」に連載された“わが友”。
灰谷健次郎さんについて綴った文章には、
“「あそびましょ」と・・・・・”という題がつけられていました。 わが友
*・・・お聖さんとカモカのおっちゃんにあやかるわけではないが、私たちも「あそびましょ」と、互いに訪ねあう。灰谷健次郎さんの東京での定宿が駿河台のホテルで、私の住まいがその裏の猿楽町だからである。
もともと彼も私も、そういう気楽な世界を早く失って、余りにも修道士的探求に熱中してきたせいか、今、こんな日々を恵まれることが嬉しく、こんなにもゆるやかな時間の底からあぶり出されてくるような伸びやかな対話が格別に嬉しい。 (後略)(全文は当シリーズ「その19」に掲載)
父が灰谷さんからいただいた何十通もの手紙を読み返しています。
2010年9月9日消印の手紙にはこんな一節がありました。 (前略)
生きているもんは楽しいことをいっぱいしないと、死んだ人にわるい、と勝手なことを思っています。
きぬ枝さんに新しいソバはまだですかと、催促していたとお伝えくださいませんか。
近いうちにお会いできるのを楽しみにしています。灰谷 健次郎
灰谷さんと父との“あそびましょ”に加わらせていただいた日々をなつかしく思い出します。
「小宮山さん、お元気ですか?そろそろ上田へ遊びに行きたいんやけど・・・・・」
私あてにくださった電話の灰谷さんの声が耳に残っています。
ある時の“あそびましょ”のあとにはこんなお手紙が・・・・・・。 小宮山量平 様 十七日はおつかれになったでしょう。少し心配しています。
「夕鶴」の講演はぼくに深いものを残してくれました。ぼくらのような書き手にも、大学生にも文庫の小母ちゃんにも、等しく感動を分けてくださった。小宮山さんは、ほんまにえらい人やと思うと同時に、ほんとに素晴らしいことというのは、年令や生活の場所に関係なしにあるもんやと、しみじみ思いました。
ありがとうございます。何回も何回もお礼をいいたい気持です。*
僕の方は、「吉兆」のお料理を二回もつづけてたべた罰(?)があたって、あの夜から熱と下痢でヒイヒイーいいました。やっと今日、熱が下がったのでこの手紙を書いています。
なにやらふうちゃんに叱られたみたいです。*
『兎の眼』のキャンペーンのこと、『太陽の子』(てだのふぁ)『いえでぼうや』の出版のこと、「きりん」のこと、日本の児童文学のこと、いっぱいいっぱいお礼をいわねばならないことがあります。
こんなにしていただいていいのかしらといくらか恐ろしく思うことがあります。
けれど、また小宮山さんに宿題を、ぎょうさんいただいたから、それをうんこらうんこらがんばろう、一つ一つ仕事をしていくのが恩返しやー、そう思うことでそのそら恐ろしさに耐えています。
小宮山さんにお会いしていると、なんにもおっしゃらないけれど、人間はどないに生きていかねばならんのか、びんびんわかるので、うれしくてなりません。
やっぱり長いきをしていただかなくてはなりません。そんなえらそうなことをどうしてもいいたくなってしまうのです。*
甘えたことをいいますが、そのとき、また、あのおしょうゆうのおにぎりをごちそうしてください。どうやらぼくにはあれが、いちばん性に合ってるみたいです。灰谷 生
(1978年6月21日 消印)
父からの“あそびましょ”を灰谷さんはとても楽しみにしてくださっていたのですね。
そして、父も灰谷さんからの“あそびましょ”をいつも心待ちにしていたのだと思います。
灰谷さん、もう少し秋が深まったら、新ソバの季節ですよ。
大切なひと、会いたいひとに「あそびましょ!」と声をかけらずにいる日々が続いています。
早く大きな声で「あそびましょ!」と言いたい。
父との講演旅行のあと上田で何日かを過ごされた灰谷さんから届いた手紙があります。
灰谷さんに会いたいな。2020.9.25 荒井 きぬ枝
小宮山量平 様 六日間ほんとうにありがとうございました。
奥様はじめみなさん方にくれぐれもよろしくお伝えくださいませ。
たいへん申し訳ないことですが、自分の家族のような気がしました。
ふと昔のぼくの(みんな生きていて楽しく暮らしていた・・・・)家族を思い涙ぐみました。
兄と母が死んだ今、もう二度と味わってはならないぬくいものを感じさせてくださったこと感謝の外ありません。
妙なお礼の手紙になってすみません。 合掌。(1980年6月11日消印)
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/9/16
1982年の秋、父は「日本読書新聞」に連続で3人の“わが友”について綴っています。
住井すゑさん、灰谷健次郎さん、そして五味川純平さん。
父あての五味川さんの手紙が遺されています。
封筒には1981年10月2日の消印が・・・・・・。 過日は熱い心の溢れるような御手紙をありがとうございました。
歳をとるほどに血の気が多くなってくるのは異常現象かとも思いますが、あなたもやはりそうなのだと知って心強い限りです。
自分の能力も省みず、あと十年喧嘩しつづけようと思っています。
途中で突然の終わりが来れば、それはそれで私の人生の乗車券が、そこまでの分しかなかっったのだと考えることにしています。
(中略)
『戦争と人間』18も今夜あたりからぼつぼつはじめます。
神保町あたりでひょっこりお目にかかる幸運に恵まれたいものと存じます。
お大事に 十月一日
小宮山量平様
純平 五味川さんについて綴った“わが友”は、まるで、その手紙への返信であるかのような内容です。 わが友 五味川純平 “肩の力をぬいてくれ”
小宮山 量平
*・・・時たま街角で会ったりすると、私たちはひっそりと手を握り会う。何か語ろうとすれば、どちらからか、思わず激して涙ぐんでしまったりするおそれがあるからだ。
さりげなく別れ、さりげなく無事を祈る。いわば、互いに「腹を立てている」ことの確認だけが、近年の五味川純平と私の阿吽の関係であった。
(中略)
*・・・けれども、今度会ったら、私は、やっぱり言わねばならないと思う。ゴミさんよ、肩の力をぬいてくれ。怒り狂って命を縮めるのは、彼らであっても、我らではない。
いうなれば、戦争責任を追いつづけた戦闘的ヒューマニストが、今こそ巨大なモラリスト(人性批評家)の不屈さへと昇華する時ではないだろうか、と。 1978年の夏に五味川さんは喉頭ガンの宣告を受けられ、手術で声を失われています。
“わが友”が掲載された1982年の5月には奥様が亡くなられました。
それでも、『戦争と人間』18巻を書き上げられた五味川さんに、父はどのような手紙を差し上げたのでしょう。
12月23日の父あての手紙には───、 十七日付の篤い友情の溢れた御手紙ありがとうございました。
カゼをこじらせ寝たり起きたりしていたものですから、答礼がおくれて申し訳ありません。
今年はひどい年でした。半分以上ゆめまぼろしをみているような状態でした。
18巻も根(こん)がつづかなくてひどい出来になりました。人間の命一つ救わないで、小説など書くおこがましさが、寒い風のように身にしみます。泣き虫になってしまいました。また、涙が溢れだしました。
(中略)
声が出ないのに号泣したくなるときの苦しさ、わかっていただけるでしょうか?
年が明けましたら一杯の珈琲をあなたと呑みながらお互いの胸に満ち満ちて溢れるものを語り合いたいと存じます。
(中略)
よいお年をどうぞ。
私は、泣きたいから腹が立つから、来年から遠慮会釈なしに喧嘩を売ったり買ったりしようかと考えています。
十二月二十三日 午后
小宮山量平 様
純平 ふたりの“友”としての交流に熱いものがこみあげてきます。
そして“同志”としての五味川さんに贈った父の文章を見つけました。
『五味川純平著作集 全20巻』(三一書房 1983年6月より配本)刊行にあたって、父が寄せた“すいせんの言葉”です。
今、歴史に背を向けようとする政治家の面々を思い浮かべながら、“昭和史の羅針盤”という父の表現を重く受け止めています。2020.9.16 荒井 きぬ枝
この昭和史の羅針盤を!
小宮山 量平
およそ作家にとっては、その代表作が、あくまでも文学作品として親しまれることこそが本望であるにちがいない。しかし私は、今、五味川純平の鏤骨(ろうこつ)の大作 『戦争と人間』が、敢て《昭和史》そのものとして読まれることを期待したい。
かの「教科書問題」を嗤う(わらう)にせよ、近ごろの世の「右傾化」を憂うるにせよ、そもそも昭和史の羅針盤が、どこでどう狂ってしまったのか──その根元を見すえる眼力が、まず、私たち各々の内面に回復されるべき時なのではないだろうか。
ところが今、各分野のひび割れたような研究や情報を、どう綴りあわせてみたところで、反って混迷は深まるばかりなのである。この時、真に総合的な眼くばりで、昭和史そのものを彷彿として再現して見せてくれるばかりか、その追体験から理性の回復までの全過程を読者の胸底に呼び醒ますような文字塔を築くことに、ひたすら心を砕いてきたのは、五味川純平であった。疑う者は、『戦争と人間』をひもとき、時にそのロマンに心を奪われ、時にその真実に慟哭するがいい──と、今こそ私は愬え(うったえ)たい。
投稿者: エディターズミュージアム
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2020/9/9
作家・住井すゑさんの未公開の日記が発見されたことを8月24日付の朝日新聞が報じています。 “『橋のない川』創作への半年間”(見出し)
部落差別問題に取り組んだ作家住井すゑ(1902〜97)の未公開日記が、茨城県牛久市の旧宅から発見された。代表作『橋のない川』に取り組み始める直前の55歳の時のもの。農民文学者の夫、犬田卯(1891〜1957)の死の直後に書き始められ、遺志を継いで作家を続ける決意や、『橋のない川』の冒頭を想起させる内容などがつづられている。(記事より) 『夜あけ朝あけ』(住井すゑ 1972年理論社刊)の“解説”の冒頭に、父は『橋のない川』について以下のように記しています。 解説=輝かしい原点を!
あの大河のような長編小説『橋のない川』の作者である住井さんについては、今では、誰ひとりとして知らぬ者はないといってもいいでしょう。第五部までの通計で二百数十万の発行部数に達し、しかも、いわゆる「作られたベストセラー」とはちがって、泉のように涸れることなく新しい読者がふえていく・・・・・おそらく第六部が完結したあかつきには、日本出版史上にも二つとはないほどの広く厚い読者と作者との結びつきが記録されるにちがいありません。
ともすれば、日本の文学作品が流行や宣伝に支配され、真の民衆的な読者を失いがちな昨今の時流を思えば、「人々はこんなにも自分たちの作品を求めているのだ」というまぎれもない事実を立証しえた点でも、作者は輝かしい巨塔を打ちたてたことになるでしょう。
思えば、どんなに多くの作品が生まれ、どんなにたくさんの本が作られたにしても、一つの時代をともに生きる民衆が、「これこそわれらの時代の本」として、暗黙のうちに同じ思いをよせあい、地の塩のように、かけがえなくとりだす本というものは、けっきょく、一作か二作にしぼられるのかもしれません。
住井さんは、まさに、その一作を書きえたのでした。そして、この一作に凝集された主題こそ《差別》であり、人びとは、その《差別》にむかって厚い連帯の窓をひらいたのだ、ともいえましょう! (後略)
『橋のない川』を理論社から──という相談を受けた折、「この作品はもっと大きな出版社から出すべきだ」と父は新潮社からの出版をすすめたのだそうです。
住井さんから父あての手紙がここに残されています。(1963年)
第四部に取りかかろうとする時の手紙です(1964年 第四部刊行)。
出版社は違っても“構想”を父に語っていたのですね。
小宮山量平 様
(前略)
いよいよ第四部、人権の夜明けの水平社結成をえがくことは、なんといっても張り合いのあることです。四部も今年中にはご高覧いただける筈です。
(中略)
四部はシベリアの戦いを軸に、黒人差別の問題にもメスを入れ、差別は権力支配下における搾取の基板だということを明らかにしたいと思っています。
昨今のアメリカにおける黒人差別は、アメリカの信用を傷つけるものだと、猪木正道なる人が朝日に書きましたが、アメリカに於ける黒人差別は、アメリカの本質そのもので、そういう本質のアメリカに、もともと信用があるのかどうかと言いたくなります。 (後略)
生涯差別問題に取り組んだ住井さんが、アメリカの黒人差別について父に語りかけている貴重な手紙です。
1997年6月16日、住井さんは95歳で亡くなられました。
二日後の6月18日付の朝日新聞に灰谷健次郎さんが追悼のことばを寄せています。
真の平等問い続けた生涯
―住井すゑという光芒―
(前略)
住井さんはその生き方によっても人々を導いた。人に上下の差はない。いのちに高い、低いはない。すべてのいのちは尊くかけがえがない、という自明のことを、自分の生涯のすべてをかけ、人々の前に明らかにしたといい得る唯一ともいえる日本人である。
(中略)
次も、住井さんのことばだ。
「・・・・・『橋のない川』全体も、一つの童話といえばいえるんです。部落解放運動というのは童心の運動ですよ。
童心というのは、人間はみんな平等だという心ですね。白人の子も黒人の子も、小さいときはいっしょになって遊んでいる。けっして差別しない。いやがらない。
童心というものは、ものを知らない、ということじゃないですね。ものを一番知っている心ですよ。人間が平等だということを知っているというのは、一番大きなことを知っていることでしょ。子どもこそあらゆるものを抱擁するだけの力があるわけよね・・・・」
このくにに、住井すゑという作家を持ち得たことを、わたしは誇りに思う。
この思想家こそが、我がくにの混迷を救う光芒(こうぼう)だったと、しみじみ思う。
灰谷さんは、以上の住井さんのことばを何よりも大切なものとして受け止めていらしたのだと思います。
黒人に対しての差別、感染者に対しての差別、今起きているさまざまな差別に直面しながら、“祈り”のような住井さんのことばを私も心のまん中に置いておきます。
2020.9.9 荒井 きぬ枝
投稿者: エディターズミュージアム
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