創作児童文学作品の刊行をはじめた頃(1959年)のことを、父はこんなふうに記しています。民間文部省の心得
それにしても創作児童文学出版の道は険しかった。今では信じられないことであるが、あの学校図書館法が成立した直後のころ、子どもたちの本棚といえば、先ず外国文学のほん訳とほん案。そして『赤い鳥』時代の名作のむし返し。それにお定まりの偉人伝。
───それらが十冊に八冊を占めていた。当代の作家たちが、現代の子どもたちのために書いた新しい作品を・・・・・などと企てようものなら、それ自体が冒険思想だった。
親しい岩崎書店の社長が私に忠告したものだ。「キミ、子ども向けの本は二匹目のドジョウだ。なにしろ親が知っているものでないと買ってくれないからねえ」とういう論法なのだ。
事実、そのころ相次いで競争出版された《児童文学》の全集が三社とも、第一回配本には『青い鳥』(ブルーバード)であった。次いで『小公子』(セドリック)又は『小公女』なのだ。川端康成・坪田譲治・井上靖など監修者までがほぼ同じ顔ぶれという有様だ。
若い評論家の鳥越信さんが、そんな有様をクルマの製造販売と比較して語ったものだ。
「ブルーバードも、セドリックも、みんな児童文学作品名だ。耳なれたブランドでないと売れない」と笑うのだが、それを聞く私の胸は苦渋にみちた。
そんな状況のまっただ中へ 戦後の、若い、無名の作家の、新しい作品 を送り込むという私の決断に対して、「そんなことしたらツブれるよ」と岩崎社長は真剣に危惧し、当分、その主催する児童図書出版協会へのわが社の入会は認められなかった。
格別資力があったわけでもない私が、一冊出版する毎に80%以上の返本をうけての出発は、無謀であり、苦しかった。が、私は「オレは民間文部大臣(*)だ。お上がやらぬならオレがやる。大出版社がやらぬからオレがやれる」と胸を張っていた。
そんな強情我慢だけが暗夜の灯であった。 (*)もちろんホンモノの大臣ならば無関心であってくれるのが一番よろしい。『昭和時代落穂拾い』より(1994年 週刊上田新聞社刊)
昨日、安曇野の“いわさきちひろ美術館”を訪ねました。
現在開催されている
田島征三展 ふきまんぶく──それから、そして、これから──
征三さんに「必ずうかがいますね」、そう約束してあったのです。
大好きな絵本『ふきまんぶく』、原画の“ふきちゃん”が私を迎えてくれました。
入口のパネルには征三さんの手書き文字で、ちひろさんとの思い出が・・・・・。 飯田橋の喫茶店でちひろさんと語り合った。
(中略)
1970年頃、もう50年も前のことだ。 征三さんの世界にしばらく浸ったあと、ちひろさんの生涯をたどる常設の展示室へ。
「またうかがいましたよ」とちひろさんに心の中で・・・・・。
ちひろさんは丸木俊さん(当時は俊子さん)から大きな影響を受けたと年譜にあります。
おふたりの若い頃の写真を見ながら、私は父が刊行した創作児童文学の最初のシリーズ “創作少年文学”(全12冊)を思い浮かべていました。
『とべたら本こ』山中恒、さし絵 岩崎ちひろ
『南の風の物語』おおえひで、さし絵 丸木俊子
父が文章に記していた『戦後の、若い、無名の作家の、新しい作品』。
ああ、おふたりとも、父の、そして若い無名の作家たちの同志として、その輪の中にいてくださったんだ───。
理論社版となった1963年の「きりん」には、ちひろさんのさし絵がありました。
1964年には俊子さんが、1965年には征三さんがさし絵を担当されています。
「きりん」の仲間でもいらしたちひろさんと征三さんは50年前、飯田橋の喫茶店でどんなことを語り合ったのかしらん・・・・・。
月日が流れました。
丸木位里さんとともに「原爆の図」を描き続けた俊さん。
『戦火の中の子どもたち』でベトナムの子どもたちを描いたちひろさん。
『猫は生きていた』で東京大空襲を描いた征三さん。
二度と戦争が起きないように・・・・・そう願った若い作家・画家たちが、父の『戦後創作児童文学』刊行を支えてくれた同志たちだったのですね。
「学問の自由」がおびやかされようとしています。
「表現の自由」がおびやかされようとしています。
戦争への足音に私たちは敏感にならなければいけません。2020.11.18 荒井 きぬ枝

『とべたら本こ』(1960年刊)のさし絵
岩崎ちひろ