1997年に刊行された父の自伝的長編小説『千曲川―そして、明日の海へ―』の書き出しの部分は印象的でした。 《その子》が、ぼくの心に、ひっそりと生まれたのは、ぼくが十歳のときのことだったろうか。その子は、いつもつんつんと匂うような紺がすりのきものを着て、まあたらしい桐のげたをはいていた。とくに、しゃっきりとむすんだちりめんのおびの大きなしぼりのもようが、その子のおしりの上で、ゆさゆさとゆれる。
ぼくには、それがまばゆかった。
(中略)
ぼくはその子のことを、だれにも知られないように、そっと、心のおくに、しまいつづけていたものだ。時として、その子のうしろ姿に「おーい」と、呼びかけたりすることもあった。一しゅん、その子は、ちらりとふり返るだけで、たちまち消えてしまうのだった。きっとたいへんなはにかみ屋なんだろう、と、ぼくは思いつづけてきた。 主人公の“ぼく”に、その子がいつも寄り添いながら、この物語は綴られていきます。
中学生になった“ぼく”は第一銀行の給仕としての第一歩を歩みはじめました。 下着をすっかり着替えた。小学生とはお別れだ。それらが床の間にきちんと置かれているのを見つめながら、ぼくは生まれて始めての長ズボンをはいた。サージの上衣も、ぴったりと合う。立て襟の内側のセルロイドのカラーが、首すじをくすぐるようだ。
新しい靴下をはいたところで、一たん朝食をすませると、さて、真新しい短靴をはいた。
玄関の土間に立ってみると、まぎれもなく、「第一銀行給仕」のぼくが出来上がったのだろう。 そして《その子》の登場です。 「おらあ満十三歳だぞ」と、思わず胸を張っての出勤ぶりだった。
───うん、おめえはもう、子どもじゃねえ。と《その子》が現れた。
───おらあ、第一銀行の給仕さまよ。と、ぼく。
───そうさ、月給十一円のな。と、《その子》。
そして《その子》は、表通りへ出るまでぼくにつきまといながら、同じ言葉をしつこく繰り返すのだった。・・・・・「月給十一円、月給十一円、月給十一円・・・・・」
───そいつが、何だってんだ。と、ぼくが怒ったように言ったとき、表通りへ出た。
眼の前が大塚辻町の停留所である。 いよいよ給仕としての第一日目が始まります。 さて、ぴんからきりまで「第一銀行給仕」のいでたちとなりきったこの日の早朝の出勤は、格別にぼくの心をはずませていたのだろうか。中本先輩は、ぼくと同じ早朝の出勤なのであったが、ぼくの新しいいでたちを見るなり、黙ってぼくの両肩を抱きしめ、「これからは、体が、いちばんのもとでだからな」と、しみじみと言ってくれた。
十時ごろに現れた渋澤重役も、ぼくの前にすっくりと立って、改まった態度で言うのだった。
「おめでとう。これからは世話になるよ」
その言葉が、じぃんとぼくの胸にしみ通って、つい涙ぐみそうになったはずなのに、例によってぼくの顔つきは一段とニコニコ輝きを増して、福助そっくりとなったらしい。 渋澤栄一さんの孫でいらした渋澤敬三さんとの出会いが、その後の“ぼく”にもたらした影響は大きかったと思います。
心に残っている敬三さんとの思い出を、父はよく語ってくれました。
そして栄一翁については・・・・・。 (前略)
こんな心づかいが如何にも渋澤栄一流の温情主義を示していたが、とりわけ私たちを感激させたのは、その身分制であった。多くの銀行会社では、給仕や小使いは「雇員」と称して《銀行会社職員録》という厚い名簿にも記載されなかったが、第一銀行では給仕は行員として遇せられ、その名簿の末席にも堂々と名をつらねている。
そんな渋澤流の気配りによって、私たちの胸には名状しがたい誇りが宿ったものだ。
(『昭和時代落穂拾い』より) 「渋澤栄一記念財団」からは、父が亡くなるまで機関誌『清淵』(せいえん)が届けられていました。
その中の一冊、父が大切に保存していた一冊を渋澤家関係の書物の間に見つけました。
渋澤敬三没後五十年の記念号(平成25年8月号)。その表紙を目にしたとたん、私の心の中に熱いものが込み上げてきました。
天井まである本棚、立てかけたはしごに足をかけて厚い本に見入っている渋澤敬三さん。
「この部屋の本はみんな読んでも良いんだよ」───、
渋澤さんからそう言っていただいたことを、父はくり返し語っていました。
父を本の道に導いてくれた“原風景”がこの表紙の写真の中にあったのですね。
“ぼく”の心の中に残っている栄一翁は、『千曲川』の中でこんなふうに描かれています。 (前略)
そしてもう当分はぼくらの前に現れはしないだろうと思われたその人が、思いがけなく、とつぜん姿を現したのは、間もなく駆け歩のようにやってきた昭和六年一月一日のことであった。
この日、念願の第一銀行竣工を記念し、そして九十一歳に到達した卒寿の喜びをもこめて、あえて全行員たちと賀辞を交わしたいというのが青淵・渋澤栄一翁の願いであった。
あたかもその日を期してのように、三階から四階へとぶち貫いて、五百名収容の会堂が設けられていた。本店の全員と市内の支店長を迎えたこの会堂には、土器の酒盃もととのえられていたのであった。その盃のいちいちに、自分の手で親しく酒を注ぎたいというのが、この九十一翁の切なる望みであった。
頭取・支配人・各部長・各課毎の全員・・・・・と、一列に並んだ行列は演壇に上がり、ついついと冷酒を盃にうけ、そして演壇を降りる。・・・・・その果てしない行列の一人一人にうなづきながら、酒器に手をそえつづけて、あの七面鳥のように喉肉をたるませた老実業家は、ほほえみを絶やすことはなかった。そして、その背後から祖父なる人をそっと支えるように、渋澤敬三氏は、あごを引きしめ、眼をいっぱいに開きつづけていた。
もちろん、熱くその眼を仰ぐぼくら一人一人にまで、気づくことはなかった。
この祖父なる人が、ひろく人びとを前にその雄姿を見せたのは、この日が最後であった。
以後、病床に臥しがちなおだやかな晩年が、そっと閉じられたのは、その年の十一月十一日のことである。 ひとりひとりを大切にしている翁の姿を、“ぼく”は心に焼き付けたのですね。
ひとりひとりを大切にしているだろうか・・・・・、この国は今、そのことを問われています。2021.3.3 荒井 きぬ枝

「清淵」平成25年8月1日発行 “渋澤敬三没後50年”記念号

父の書棚にあった渋澤家に関する書物、
右は昭和3年に刊行された『處世の大道』
(渋澤栄一著 実業之日本社刊)