2021/5/26
灰谷健次郎さんが『いのちまんだら』と題して朝日新聞にエッセイの連載を始められたのは1997年11月。
毎週楽しみに読ませていただいていました。
坪谷令子さんが絵を添えられていました。
1998年の9月には朝日新聞社から同名のエッセイ集として刊行されています。
『いのちまんだら その2』は、1999年に刊行され、『アメリカ嫌い』という一冊になっています。
たくさん書かれたエッセイの中からその一つを本の題名にされたのですね。
灰谷さんらしい・・・・・。
その『アメリカ嫌い』なる文章をもう一度読んでみたくて本を開きました。 (前略)
ついでにいってしまうと、わたしのアメリカ嫌いは、日本の保守政治家嫌いとつながっている。
真の友は、時には相手にとって耳の痛いこともいうものだが、そんな事例を求めるのは、砂場でけし粒を探すほどむずかしい。
新しい政治の指導者になると判で押したように「アメリカ詣で」をくり返すが、一人の日本人として、そのたびに、ひどく恥ずかしい思いにさせられる。
もっともらしく「成果」を誇示すると、いっそう恥ずかしくて、ついついうつむいてしまいたくなるのだ。
政治家嫌いはいっこうに改まらない。 (後略) 読みながら、つい先日「アメリカ詣で」をしただれかさんの顔がチラつきました。
『いのちまんだら』連載中に父について書いてくださったことがあります。
(1998年11月25日付)
『アメリカ嫌い』の中にそれが収められています。
『千曲川 第一部―そして明日の海へ』が刊行されたその年、灰谷さんは信州へいらして、父と一緒に小さな旅をされました。
その前年、1997年に灰谷さんは、“フォーカスが犯した罪について”という文章を残して、新潮社から版権を引き上げられました。
苦悩の中にいらした灰谷さんに「あそびましょ!」と声をかけたのは父だったのでしょうか、それとも「あそびましょ!」と灰谷さんが父に声をかけてくださったのでしょうか。
同行させていただいた日のことをなつかしんでいます。2021.5.26 荒井 きぬ枝
先達の足跡
安曇野を小宮山量平さんと歩いた。山田温泉で楽しい一夜を過ごし、次の日
「ちょっと寄って行きませんかねえ」
と小宮山さんはいった。
「え?どこへ」
少し展示しているものがあるという。
それは、北斎と栗菓子で有名な小布施町にあった。上信越自動車道の小布施パーキングエリアからも直接行ける「千曲川ハイウエイミュージアム」がそれで、小宮山量平さんの全仕事の企画展だった。
ちょっと寄って行きませんかはひどいなぁ、もっと早くいってくれればいいのに・・・・・。
この先達は八十二歳になっても、シャイなのである。
理論社を起こし、思想書の出版を経て、日本の創作児童文学を育てたことは世に広く知られているが、出版界にあって、いつも時代と真摯に向き合い、その精神の指標でありつづけた功績は大きい。
八十歳になって書きはじめた自伝的長編小説『千曲川』は、第二十回路傍の石文学賞特別賞を受けた。
展示の冒頭に、──滔々と流れる千曲川の奔流に似た小宮山少年の豊かな精神形成の流れ・・・・とあり、その『千曲川』の原稿が置かれてあった。
小宮山さんのいちばん新しい仕事を大事にしてくれているのがなによりうれしかった。
知友展というコーナーがあり、グルジアの画家ラド・グディアシビリの絵「友愛」、まだ無名に近かったころの手塚治虫の『おれは猿飛だ』の原画、長新太の『星の牧場』の表紙絵など、貴重で、めずらしい作品の数々を、わたしははじめて見た。
小宮山さんは出会いという言葉を大切にする。多くの作家を育てたといわれることをひどく嫌い、わたしはただ出会いを大切にしただけなのだと返す。
グディアシビリも手塚治虫も長新太も、小宮山さんにとって、かけがえのない友人なのである。
一九四七年に創刊した「理論」のバックナンバーも展示されてあり、わたしも若い頃、夢中になって読んだ上原専禄、大熊信行、都留重人等の名を見てなつかしかった。
生家である古い土蔵の前に立つ小宮山さんの写真を眺めていると、
「そこでね、岡田嘉子も、田中絹代も、山田五十鈴もね、ロケをしたんだ」
と小宮山さんはうれしそうにいう。そんなときの小宮山さんの顔はまるで子どものようで、失礼ないい方だが、とても可愛いのである。
「創作児童文学のあゆみ」という部屋があり、数々の名作の初版本が並べられてあった。『夜あけ朝やけ』住井すゑ、『キューポラのある街』早船ちよ、『ベロ出しチョンマ』斎藤隆介、『赤毛のポチ』山中恒、『ぼんぼん』今江祥智等々である。
『北の国から』倉本聰も全巻置かれていて、その壁面の純、蛍役の吉岡秀隆、中嶋朋子の成長が見られるスチールがことのほか微笑ましかった。
投稿者: エディターズミュージアム
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2021/5/19
我が家の庭の“卯の花(うつぎ)”。
まず4月には姫うつぎ、こぼれるように小さな白い花が咲きます。
次ぎに大きな木に育った梅花うつぎ。満開になるのは5月半ば。
今年は開花が早くて、散り始めています。
次ぎに八重の梅花うつぎ。ただいま開花の順番待ちです。
永六輔さんがお元気でいらした頃、4月に入ると私は毎年手紙を差し上げていました。
「庭の“卯の花”のつぼみがふくらんできました。今年もお待ちしております」・・・・・と。
“卯の花忌”にしよう、と言ったのは父でした。
2006年11月に亡くなられた灰谷健次郎さん。
偲ぶ会などはしないで・・・と言い遺されていました。
「私の誕生日に集まってくれる人たちと、灰谷さんのことを語るならば、灰谷さんはきっと許してくれるはず」、父はそう言って、自身が生まれた5月に咲く「卯の花」と『兎の眼』とをかけて“卯の花忌”と名付けたのでした。
その“卯の花忌”の第一回目(2008年)から参加して下さったのが永六輔さんです。
その時の模様を「週刊上田」が誌面で次のように伝えています。 (前略)
この日のゲストで灰谷さんが信頼を寄せていた永六輔さんは「灰谷さんはほら、ここにいますよ」と話し出し、「よくいっしょに講演をしたが、ぼくがどんなに会場を沸かせても、最後に彼が子どもの詩を朗読するとみんなもっていかれちゃう。ずるい!」とおどけ、灰谷さんが生前録音した子どもの詩の朗読を披露。ともに楽しんでこそ供養とばかり、軽妙な話術で会場を笑いの渦に包みました。 (2008年5月) 2009年第二回目の“卯の花忌”。
私は以下のようなお知らせのハガキを作りました。「卯(兎)の花忌」そして小宮山量平93歳のお祝い
お客さま 永 六輔 さん 毎年父の誕生日を楽しみにしてくださっていた灰谷さん。
その5月がまためぐってきました。
「93歳、元気ですよ。」──心の中で私は灰谷さんにそう伝えます。
2回目の「卯の花忌」。
日本の“今”をごらんになって、灰谷さんがいらしたら何を思い、何を語られるのか・・・・、
そのことをしきりに考えています。エディターズミュジアム代表 荒井 きぬ枝
2012年に父が他界。
その後の“うの花忌”を永さんが支えてくださいました。
「語ってくれる人がいるかぎり、その人は生きている」
そうおっしゃって、灰谷さんのこと、父のことを語り続けてくださいました。
永さんが最後にお見えくださったのは、2015年の“うの花忌”でした。
車イスで、少しおつらそうでしたけれど、声をふりしぼるようにして憲法九条の大切さを訴えられました。
そして、九十九条の大切さも・・・・・。
「この条文は、国会議員や公務員は憲法を守らなければならないという立憲主義の原則をうたったもの」──と。
ひるがえって、憲法記念日のことしの5月3日。
改憲派のウェブ会合での国会議員の発言。
「コロナのピンチをチャンスに」・・・・・・・ですって?
どれだけ多くの方が亡くなられたか、どれだけ多くの人々が今苦しみの中にいるか、それをひとくくりに、“ピンチ”という無神経さ。
そしてこの機に乗じて改憲できるんじゃないかという信じられない発想。
怒りを通り越すというのはこのことでしょうか。
美しく咲いた卯の花に、“うの花忌”への思いがつのります。
来年こそ“うの花忌”で、灰谷さんを、永さんを、そして父を語りたいと思っています。
2021.5.19 荒井 きぬ枝
(*父が亡くなった後の“卯の花忌”は、“うの花忌” と改称しました)
投稿者: エディターズミュージアム
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2021/5/14
5月12日──。
父の誕生日のこの日に毎年必ず朴の木(ほうのき)の花を届けて下さる佐久の吉澤さん。
今年も父の遺影のわきにかざらせていただきました。
吉澤さんは「つづり方兄妹」の房雄くん(ふうちゃん)の詩に励まされた“ふうちゃん党”のおひとりです。
“千曲川”の流れに沿って新潟まで行く小さな旅をしてきました。
父と一緒にかつて同じ旅をしたことがあります。
『千曲川─そして明日の海へ─』の執筆にとりかかる前だったと思います。
父はあの時、どんな風景を心にきざんだのでしょう・・・・・・。
飯山で高速を降りて、新潟県の十日町に向かいます。
道路わきに菜の花が咲いていて、それが延々と続いていました。
飯山は菜の花の里です。 いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
・・・・・・・・ 山村暮鳥のこの詩を、“ふるさとの原風景”について語る時、父がよく引用していたことを思い出しました。
“千曲川”は新潟県に入ると名称が“信濃川”に変わります。
ずっとずっと車は川沿いを走ります。
新緑のあい間あい間から川の流れが見えるたびにほっとするのです。
父が一緒にいるような気がして・・・・・。
新潟市で宿泊したホテルの窓からは川幅が広くなった信濃川が見えました。
翌朝、萬代橋をゆっくり渡ってみました。
もうすぐそこに海が見えます。
千曲川からたどりついた日本海です。
『千曲川―そして明日の海へ―』。
「おとうさん、ここまで来たよ」
そう父に語りかけながら、なんだか胸がいっぱいになりました。
『昭和時代落ち穂拾い』第一部の最後の父の文章です。 『千曲川』という作品を遺そうと思いつづけて来た。 父はそう記していました。
見てきたばかりの千曲川から信濃川、そして日本海の風景を今また、思い浮かべています。 2021.5.14 荒井 きぬ枝
故山へ還る
〽時これ五月十二日・・・・・(注)巡りくる誕生日毎に、必ずこの歌を口ずさんで戦後の四十五年が過ぎた。茫々として、あの日この日が甦る。あの顔この顔が浮かぶ。
それらがぎっしりと詰まって、重い。その重みをこらえこらえて、私の「昭和時代」は、大急ぎでひとまず敗戦の日まで辿りついたようだ。ここでひと息つかせていただく。
正に落穂拾いにも似たこんなメモではあるが、多くの読者が愛読して下さったようだ。たくさんの励ましと叱正とをいただいた。およそ60回も書けば、あらましは書き終えるかと思っていたのに、昭和史の三分の一をかえりみただけだ。思えば昭和史の初めから終わりまでを、よくぞ生きぬいたものだ、と、改めて思う。
編集者として何かにつけて仰いで来た同郷の先輩に臼井吉見さんがいる。彼は晩年に社業から解放されるや『安曇野』という大河のような作品を書いた。私も先輩の至福の歩みに倣って、昨年末には社業からフリーとなった。少し遅すぎたのだけれど、『千曲川』という作品を遺そうと思いつづけてきた。この「落穂拾い」は、期せずして、そのためのメモとなったようだ。この『週刊上田』紙に楽しく連載させていただいたおかげで、創作への脚ならしもできた!
かえりみれば臼井さんの作品は、日本の近代思想を切りひらいた前衛たちの群像に照明をあてることによって、信州人の秀れた先駆者をたたえることとなった。
けれども私は、この上小盆地という日本のヘソのような中心の地に、平凡な「平均的家族」として激動の時代を生きぬいたふるさと人の温もりを探ってみたい。
今こそ「失われてはならないたからもの」を書き留めて置きたい! (注)(アッツ島玉砕の歌)
朴の木の花と うの花に囲まれて
投稿者: エディターズミュージアム
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2021/5/7
それぞれ『おとうさん』、『おかあさん』と題された二冊の詩集は、1962年に理論社から刊行されました。
『きりん』のこどもたちの詩がぎっしりつまっています。
“母の日”を前に『おかあさん』を読んでいます。 こ え 赤木 一夫 (一年) おかあちゃんが きをつけてねといった ぼくは はいいってきますといった おかあちゃんのこえが ついてきた がっこうまでついてきた パーマネント 安井 光夫 (三年) 三時五ふんに おかあさんが パーマネントに いきました 七時六ぷんに ぴかぴかあたまで かえられました こんばんは どうしてねるのかな。 ほほえましい詩のあとにこんな詩が・・・・・。 母の日 若生 栄司 (六年) いつもせんこう一本 きょうは、五本 せんこうのけむり かあちゃんの 笑顔になった おかあさんを亡くしたこどもの詩──。
岡本学級ののぐちてるおくんの詩が浮かんできました。
そのことを灰谷健次郎さんが『子どもへの恋文』に記されています。
岡本博文先生、『きりん』が休刊に入る少し前、活気を失くしていく教育現場にあって、孤軍奮闘されていた先生のひとりです。 (前略)
岡本学級は、もともと貧しい家庭の子が多かった。
岡本博文は、子どもの現象を、まず問題にするのではなく、子どものうちなる声をきこうとする教師だった。
彼は、のぐちてるおを呼びとめ、いちばんしたいメンコを共に興じた。
毎日、暗くなるまで一週間それをつづけたという。
のぐちてるおは、自分の家庭のことを、話しはじめる。
「おれ、先生すきや」
と、ぽっつりもらす。
(中略)
ようやく心寄せる先生を見つけたのぐちてるおは、級友にも励まされ、文をつづり、絵を描くようになる。
(中略)
母の死という最大の不幸が、てるおを襲う。てるおは、じっと耐える。 かあちゃん そうしきのくるまがくる はこの中で 手をあわせているかあちゃん 目をつむって 白いきものをきてるかあちゃん くるまのなかへはいった かあちゃん くるまのなかくらいやろな 葬式の、あくる日に、てるおは、もう学校に出てきたという。
そして教室に入るなり、堰を切ったように語る。 「・・・・・・・おかあちゃんな、死ぬまえのばんな、おれの詩みたわ(学級詩集「竹の子」二十一号に発表の詩)
二十一号の詩みてな、わろうてたわ。そやけどな、おかあちゃん死んだやろ。おれ、
その詩な、はさみできってな、死んだおかあちゃんの手の中へ詩の紙を入れたわ。
はこの中へおかあちゃん入れたわ。
おかあちゃんの手の中に、その詩がきつうにぎったったわ。
おとうちゃんな、それみて、泣いたで。兄ちゃんもないたわ」 のぐちてるおと向き合って、その言葉を受ける岡本博文の姿、そしてその胸中を思う。若い教師だったわたしは、そんな先生が存在することに胸を熱くしていた。
てるおの孤独を救ったのは、詩を書くことを教えた岡本博文だ、とわたしは思った。
そう思うに足る詩を、てるおはその後も書きつづけた。 しんだおかあちゃん おかあちゃん 「し」のしょうじょうもろたよ ふでばこもろたよ バッジも もろたよ おかあちゃん みんな おぶつだんのところへならべとくよ おかあちゃん これ さわってみてね ところが岡本博文はいう。
「ぼくは、詩の指導などしていません。子どもといっしょに生活しているだけです」
わたしが彼に会ったとき、彼はわたしにいった。
「ただ、子どもに惚れているだけですよ」
私は唸った。
そして思った。
すごい教師がいて、わたしは、そんな教師に助けられ、励まされているのだな・・・・・。
(後略) きょう5月7日付の信濃毎日新聞の記事です。
鎌田慧さんがシリーズでかかれている「忘れ得ぬ言葉」。 「教育を変える力は、教師にあるってことを自覚してほしいんやけど
灰谷健次郎(児童文学作家)」 今、孤軍奮闘してくださる先生の存在を願わずにはいられません。どうか子どもたちと真っ正面から向き合ってください。
それにしても───です。
五輪ありきで、子どもたちの貧困には目をそらし、コロナ禍の中の子どもたちのとまどいや、悲しみにも目をそらしている人たちが、突然言い出した「子ども庁」。
「何やそれ」 灰谷さんの声が聞こえます。2021.5.7 荒井 きぬ枝
投稿者: エディターズミュージアム
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