2021/9/29
山田洋次監督のインタビュー記事の見出しに心を奪われました。
(9月26日 しんぶん赤旗日曜版) みんなが「こうだ」と言う時、「NO」と言えることが大事 記事の中で監督は、次のように発言されています。 「みんなが『こうじゃないか』って言う時に、『私は違う』と言えることの大事さです。
自分の心に聞いてみる。
あるいは自分の頭で考えてみる。
民主主義社会は、全員が自分の頭でものを考えることが大前提でしょう。(後略)」 生前、父が親しくさせていただいていた監督のことばに、あらためて父のことばが重なりました。
まだ二歳だった私に、日記のような形で語りかけた父のことばです。
何度もくり返し読んで、胸の奥にきざみこまれている父のことばです。 1949.9.8
この数日、私は病気で寝こんだ。病気という環境の中で、これまでの私は、ひとすじに死を想うような感傷家だった。
しかし、今度の病気では、凡々と、なおることばかりを祈った。こういう生活のしんを私に与えてくれたものは、お前だ!そんな感謝をはじめて味わっている私の耳に、お前とお母さんとの会話がきこえる。きぬちゃん。──いや。おいたしちゃだめ。──いや。お前は、何でも「いや」という。人間としての独立性が生まれる最初の時期に、否定詞の時代があるのはおもしろいことだ。たんとたんと「いや」といいなさい。
それは、シャンと、自分で自分を支える第一歩だ。
(─私はおまえをえた─『愛になやみ死をおそれるもの』1950年理論社刊より) 自分の足で立ち、自分の頭で考えることの大切さを生涯語り続けた父でした。
“日記”を読むたびに私は、この父のことばは私ひとりに向けたものではなく、戦後を生きる多くの人々に向けての父の、心からの語りかけなのだと思うのです。
茨木のり子さんの詩を思い出したのは、山田洋次監督の発言と、父のことばのせいだったのでしょうか。
思わず本棚から詩人の作品『倚りかからず』(1999年筑摩書房刊)を取り出しました。 じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある 『倚りかからず』と題された詩のこの二行がいつも私の心にきざまれています。
その詩が載っているページに、新聞の切り抜きがはさまれていました。
自分ではさんでおきながら、すっかり忘れていたのですが、当時、その文章に心から共感して切り抜いておいたのだと思います。
朝日新聞の「日曜に想う」(2017年10月22日付)
編集委員の福島申二さんが書かれています。2017年の衆院選の開票日に掲載されたこの文章が、あまりにも今と重なっているのです。飛び交った声 明日からの言葉
あの詩人のお宅は、さっぱりと知的な空気をまとっている。
私のご近所といえるところにその家はあって、たまに散歩しながら前を通ることがある。
詩人は11年前に亡くなられ、家屋は少し古びれたけれど佇まいはそのままだ。
通りかかるといつも、彼女の詩が一つ二つ胸の底から浮かんでくる。きのうあたり散歩に出かけていれば、浮かんできたのはこの一節だったかもしれない。
言葉が多すぎる
というより
言葉らしきものが多すぎる
というより
言葉と言えるほどのものが無い
お分かりの人もあろう。茨木のり子さんである。この「賑々しきなかの」という詩の冒頭は、きのうまでの選挙運動を言っているようにもみえる。何のための選挙か納得のいかないまま、自賛と甘言の呼号が頭上を飛び交っているように感じた人は、少なくないだろう。
あるいは、胸に浮かぶのはこの詩句だったかもしれない。
ひとびとは
怒りの火薬をしめらせてはならない
まことに自己の名において立つ日のために
この3行を含む詩には「内部からくさる桃」という刺激的な題が与えられている。
感情にまかせて荒れ狂う怒りではない。憎悪ともむろん違う。この3行にこもる意味は、おそらく「忘れない」ということと同義だ。なぜなら、忘れるのをじっと待っている人たちがいるから。
(中略)
さて今夜、テレビ各局は特別番組をずらり並べて衆院選の開票を待つ。候補者1180人は当と落に振り分けられ、国政に新しい勢力図が描かれる。
どのような図になろうと、あすからの政治にはまともな言葉がほしい。
空疎な「言葉らしきもの」はいらない。「言葉と言えるほどのものが無い」などは論外だ。私たちもまた、言葉をめぐる政治家の怠惰や横着に慣らされてしまってはいけない。主権者として、為政者の思い上がった言葉には愚か者を諭すまなざしを向けなくてはならない。
(後略) 自民党の総裁選の様相に、ともすれば絶望感さえいだいてしまうのです。
けれど、父の言葉が聞こえます。
「シャンとしなさい」───。
そうだ、「シャンとしよう」。
茨木のり子さんの詩を、もう一度読み返しています。2021.9.29 荒井 きぬ枝
倚りかからず もはや できあいの思想には倚りかかりたくない もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない もはや できあいの学問には倚りかかりたくない もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ
投稿者: エディターズミュージアム
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2021/9/22
朝、自転車に乗って仕事に向かいながら空を見上げました。
高い空に秋の気配を感じます。風も心なしかさわやかになって・・・・・。
その秋の気配とともに、小学校の校庭で行われたあの運動会のざわめきがよみがえってきます。
娘たちの運動会、孫たちの運動会。
60年以上も前の私自身の運動会だって思い出すことができます。
リレーの選手だったんですよ。
オリンピック・パラリンピックのメダリストらへの感謝状の授与式が昨夜行われたようです。
追いつめられて政権を放り出して、もうすぐおやめになる現総理が、オリ・パラの成功を誇らしげに語る姿が映像で流れていました。
昨年も今年も運動会が中止になってしまった子どもたちの悲しみに、思いをはせるなどということはないのでしょうね。
子どもたちの抗議を受け止めることができるとしたら、今、子どもたちはどんな詩をかくでしょう。
『せんせいけらいになれ』の最後の章です。 マコチンチンものがたり
(前略)
では、マコチンチンものがたりをはじめましょう。おっとおことわり。マコチンチンものがたりは、わたしがするのではありません。マコチンチンのともだちが、つづり方をもちよってやってくれるのです。
「わたしとこのがっきゅうは、みなあだながついとう。先生はこげぱん、くろんぼ。わたしは、しっこ、はぬけ、しーちゃん。まことくんのあだなはマコチンチン。まことくんのあだながいちばんへんや。なんで、マコチンチンというかいうたら、まこちゃんからまこっちゃん、まこっちん、まこちんちんとかわったからです。」
(二年 しの・ゆりこ)
つぎは、マコチンチンの一年生時代。
「まことがすねたら、げんしばくだんみたいになる。先生におこられて、きゅうしょくたべへんかった。ぼくがたべんかいといったら、まことはいらんわいといって、レオポンみたいに、ぎゃあぎゃあこえをだしてなきよった。おかずのはいったちゃわんをぼんぼんなげたり、カルピスをなげとばしたりした。そんで土をつけたはなくそをたべよった。そうじとうばんのときも、ゆかにねとった。
そうじがおわってもねとった。まことはほこりでまっしろけになっとった。
(二年 くぼた・しんぺい)
このじぶんのマコチンチンは、絵も文もなにもかいていません。二年生になって、マコチンチンのだいすきなペッタンをじどうかいでとりあげられそうになって、はじめてこんな文をかきました。
ペッタン 二年 くろだ・まこと
ぺッタンは、おもろいから
きんししていらん
おれはペッタンをきんししたら
ごはんなんかいらんわい
おれはペッタンがなしやったら
べんきょうなんかせん
ペッタンがなしやったら
おれはしんだほうがいいわい
おれはペッタンやぶられたら
ペッタンはおれのともだちやから
やぶらんとってくれ 「ペッタン」はまことくんの抗議です。
そして、まことくんのもうひとつ詩がいつも私の心の中にあります。 ま ね
みんなはちょいちょいよその子の
「え」や「し」まねするけど
おれはまねはだいきらいや
ひとがはつめいしたことを
そのまままねするのはいやらしい
みんなのこころのなかには
くろいふくきたまねのかみさんが
ひひひとゆうてすんでんねんやろ このたびの自民党の総裁候補の女性のひとりは、後ろ楯と目される人の“まね”をしています。
───ノミクスですって? 三本の矢ですって?
私はすぐにまことくんの詩を思い浮かべました。
「くろいふくきたまねのかみさんが ひひひゆうてすんでんねんやろ」──。
意気揚々と語る女性候補の映像に、まことくんのこのことばが重なってしまうのです。
この一年間の政権の中枢にいたにもかかわらず、その政権への総括も反省もないまま、
「私が総裁になったら」──と、語るだけの候補者たち。
「総裁になったらどうしますか」──とだけを問いかけるメディア。
候補者の討論は、私の頭の上を通り過ぎていくだけです。
選ぶ権利が私たちにはないのです。
こんなふうにして、一国の総理大臣が決まってしまうのですね。
日本農民文学会が発行している『農民文学』の編集長でいらっしゃる方の文章を拝見しました。
『農民文学』326号の、「農民文学の詩人たち」という特集の中で引用した、福島県いわき市の詩人の詩を紹介されていました。
今、この詩が私の胸に深くきざまれています。
今をするどく言い当てているように思えるのです。2021.9.22 荒井 きぬ枝
中央はここだけ 東京を中央とよぶな 中央はまんなか 世界のたなそこをくぼませておれたちがいるところ すなわち 阿武隈山地南部東縁の 山あいのこの村 そうさ 村がまさしくおれたちの中央 もしも東京が中央なら そこはなんの中央 それはだれの中央 そこで謀られるたくらみが おれたちをますます生きにくくする
運動会の灰谷先生と子どもたち
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2021/9/15
“児童憲章七十年”―今こそ理想の実現を── という見出しの記事を読みました。
(しんぶん赤旗 8月25日号)
『児童憲章』が制定されたのは1951年。
今からちょうど70年前のことです。
記事は、その歴史と意義について、“日本子どもを守る会会長”の増山均さんにお話をうかがったものです。 戦前、子どもは天皇の赤子であり、家父長制の下で支配され、人格の主体とは認められていませんでした。生活・教育・文化・労働のすべてにわたって、権利が踏みにじられていました。
戦後、憲法・児童憲章の下で子どもは、自らの人生・人格の主体に位置づけられました。同時に、ただ守られるだけでなくて、社会の担い手であることも認められました。
憲法と児童憲章がセットになって、戦争のない幸せな子ども時代が確立しました。
私を含め、戦後を生きる人たちは「児童憲章の子」なんです。
最近は子どもの権利条約が注目されていますが、日本独自の事情をふまえて子どもの権利を認めたという点で、児童憲章には歴史的な価値があります。
憲法改悪の動きをはじめ、今この時代だからこそ失ってはならないもの。憲法とセットの「宝物」として私は、「憲法・児童憲章・子どもの権利条約」という位置づけをしています。 そしてこんなことも──、 実は児童憲章は、皆さんの身近にあります。自治体から交付される「母子健康手帳」に収録されているからです。 えっ、そうだったんだ。
私はあわてて、長女と次女のそれぞれの “思い出” の箱から母子手帳を取りだしてみました。
子育てに夢中で、私はうかつにもそのことに気付いていなかったのです。
母子手帳の裏表紙にそれはありました。 児 童 憲 章
われらは、日本憲法の精神に従い、児童に対する正しい観念を確立しすべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。
児童は、人として尊ばれる。
児童は、社会の一員として重んぜられる。
児童は、よい環境のなかで育てられる。
1、すべての児童は、心身ともに、健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
2、すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
3、すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疫病と災害から守られる。
4、すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。
5、すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。
6、すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整った教育の施設を用意される。
7、すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。
8、すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。
9、すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境から守られる。
10、すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取り扱いから守られる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。
11、すべての児童は、身体が不自由な場合、または、精神の機能が不十分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。
12、すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。 コロナ禍の中で、ずっと我慢を強いられている子どもたちのことを考えています。
オンライン授業の様子がテレビに映し出されます。感染防止のためとはいえ、先生と生徒の無機質な声のやりとりが悲しく響きます。
学校という居場所、教室という居場所を今、子どもたちは失いつつあります。
あらゆる場面で、子どもの権利は守られていないのです。
『児童憲章』に記されたことばのひとつひとつが、子どもたちの叫びのように私には聞こえてきます。
子ども同士、先生と子どもたち、
オンライン授業には“ぬくもり”がありません。
現場の先生たちのとまどいながらの努力に思いをはせながら、“ぬくもり”を取り戻せる日が来ることを祈っています。
“ぬくもり”のある教室からは、こんな詩が生まれてくるのです。
何度も読んだ詩がまた、私の心に浮かんできます。(『せんせいけらいになれ』より)
灰谷先生が病気になった時の子どもたちの詩です。
二つの詩には、父が赤い線を引いてありました。講演会の時に、きっと読み上げたんだと思います。2021.9.15 荒井 きぬ枝
びょうき、ぼくにくれ 二年 にしもと こうぞう 先生、しんどいか しんどかったら いつでも、びょうきぼくにくれ ぼくはしんどかってもよい 先生がげんきになったら ぼくはそれで むねがすーとする せんせい、はよこい 二年 おおひら しずお せんせいはよこんかい せんせいがきやへんかったら さびしくてさびしくてかなんやんかい あそびのときもおもろない せんせいはよこい こいこいこいこいこいこい
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2021/9/8
パラリンピックの開催中、「共生」、“共に生きる”ということの本当の意味について、ずっと考えていました。
四十年以上経った今も私にはわだかまっていることがあります。
長女が幼稚園の年長さんだった時のことです。
入学が決まっている小学校で、来入児の知能テストが行われました。そのことについて、校長先生は保護者に対してこう説明されたのです。
「他のお子さんについていけない子どもがいるかどうか調べて、その子にとっていちばん幸せな場所を与えてあげるためです。」───と。
うなづいて聞いている保護者たち・・・・・。
“幸せな場所”ですって?
特別学級に入れなければならない子を見つけようとしていたのです。
校長先生の、やさしさを装ったその説明。
私は校長先生をきらいになりました。
『兎の眼』(灰谷健次郎 1974年理論社刊)をはじめて読んだのはちょうどその頃だったと思います。
“みな子ちゃん当番”がとりわけ心に残ったのは、私のそのわだかまりのせいだったのかもしれません。
新米教師の小谷先生は、とまどいながら、時には泣きべそをかきながら子どもたちと向き合っています。 (前略)
十月にはいって小谷学級に奇妙な子どもがはいってきた。名まえを伊藤みな子といった。走るのがとても好きな子どもだったが、走るということとスピードをくっつけて考えるとすこしようすがちがってくる。
みな子はなにかうれしいことがあると走る。自分にとって快いことがあれば走る。
みな子は走るとき笑う。天をあおいで笑う。手と足をあおるようにして走る。くらげのおよいでいるのを人間がまねすると、みな子の走り方に近くなる。だから、みな子はいくら走ってもスピードは出ない。スピードが出ないだけでなしによくこける。
みな子が走っていると、小谷学級の子どもたちは、ああ、きょうはみな子ちゃんきげんがええのやなあと思う。 みな子ちゃんのオシッコの世話までしながら、小谷先生はがんばります。 もちろん、みな子の行動のおおかたは、小谷先生や子どもたちのめいわくになることにかわりはなかった。しかし、小谷先生は笑顔をたやさず、みな子の世話をつづけた。
みな子がきたために、いちばん被害を受けているのは、なんといっても、となりにすわっている淳一だった。淳一はおとなしい子だった。みな子によくノートをやぶられていた。教科書までやぶられて、べそをかいたこともある。
はじめのうち、給食の時間に食べ物を手づかみにされて、むっとしたり、エンピツをとられてあわててとりかえしにいったりしていたが、そのうち、みな子にたいする態度がすこしずつかわってきた。
そのかわり方は、小谷学級全員の子どもたちのかわり方とにているところがある。
(中略)
みな子のことで二回めの話し合いをしたとき、その淳一がいった。
「せんせいはみなこちゃんめいわくですか」
「はい、めいわくです」
小谷先生のこたえはなかなか正直だ。
「だけどせんせいは、みなこちゃんをかわいがっているでしょう。みなこちゃんがすきなんでしょう」
「はい」
小谷先生はにこにこ笑っている。淳一ののんびりしたもののいい方に、思わずほほえんでしまうというあんばいだ。
「めいわくだけど、みなこちゃんはかわいいからこまっているんでしょ。せんせい。
それで、ぼくらにそうだんしているんでしょう」
「そうよ」
小谷先生はそんなもののいい方をする淳一がとてもかわいい。
「ぼく、いいかんがえをおもいついたんだ」
「どんなこと、淳ちゃん」
「みなこちゃんのとうばんをこしらえたらどうですか、せんせい」
「みな子ちゃんの当番?」
みな子ちゃん当番がはじまった日から学級通信の発行がはじまりました。
小谷先生は、通信に淳一くんのことばを大きな字で印刷します。
ぼく
みなこちゃんがノートやぶったけど
おこらんかってん
本をやぶってもおこらんかってん
ふでばこやけしゴムとられたけど
おこらんかってん
おこらんと
でんしゃごっこしてあそんだってん
おこらんかったら
みなこちゃんがすきになったで
みなこちゃんがすきになったら
めいわくかけられても
かわいいだけ
みな子ちゃんが養護学校に入る日が近づいてきます。
みな子がきてから、この学級はだいぶかわったと小谷先生は思う。一学期のときは、告げ口が多かった。いまはそれがほとんどない。なんとなく学級に活気が出てきた。
なにかしなければ子どもはかわらないんだとつくづく思う。もちろんわたしもと、小谷先生はちょっとてれて思った。
でも、もうすぐみな子ともわかれなくてははならない。それがかなしい。かなしいだけでなしにこれからどうすればいいのだろう。いつまでもいてほしいのにと小谷先生はさびしく思った。
そしてお別れの日です。
「みなこちゃん、さよーならー」
みんな手をふった。みな子はいっそう大声で笑った。子どもたちはみな子の姿が見えなくなるまで手をふっていた。
みな子を見送ってから、給食をたべるために、みんな教室へかえった。いつもはやかましいのに、きょうはあまりしゃべる子どもがいなかった。教室中なんとなくしーんとしていた。
小谷先生は淳一が給食をたべないことに気がついた。
「淳ちゃん、どうしたの。どうして給食をたべないの」
淳一はうらめしそうに小谷先生の顔を見た。ほおのあたりがひくひく動いた。みるみる眼に涙がたまった。なにかを訴えるように、となりの道子を見、たけしを見て、ふたたび小谷先生の顔をみつめた。
それは短い時間だったのに、長い時間のように感じられた。小谷先生はくるっとうしろを向いた。小谷先生の肩ははげしく動いて、どの子どもも先生が泣いていることを知った。淳一はぽろぽろ涙をこぼし、それまでがまんしていた道子は声をあげて泣きはじめた。照江はしゃくりあげ、たけしは下を向いたままだった。
みんなさむい顔をして、さめた給食をみつめていた。
今、『灰谷健次郎の保育園日記』(坪谷令子画、1985年小学館刊)を読んでいます。
脳腫瘍で7回もの手術をくり返し、三歳児でありながら生後6ヶ月ほどの発達指数で、ほとんど身動きができない状態であったきよこちゃん。
そのきよこちゃんを受け入れた「太陽の子保育園」でのきよこちゃんの成長の記録が記されています。
“共に生きる”ことの本当の意味をさぐっていた私の心に、灰谷さんのことばがその答えのようにひびいてくるのです。
ひとりの子どものいのちを中心にして、多くの人々があたたかくもきびしく寄り添うという世界がここにある。いうなれば、それは当然のこととしてあるべき性質のものであろう。
きよこちゃんはしあわせだなあと、ふと思うことがある。そう思ってから、そう思ったこと自体、大きな差別だと気がつき、つらくなる。
すべての「障害児」はきよこちゃんのように、いや、きよこちゃん以上にしあわせを受ける権利がある。
それを果たさせない社会を、ぼくたちがこの手でつくり、そして、ぼくたちはそこに住んでいる。
ぼくたちはなにをすればいいのだろう。
この「いのちに添う」記録を通して、それを共に考えていきたいと思う。
いのちを大切なものとして、認め合い、成長し合うこと。
“共に生きる” ということはそういうことなのじゃないかと、灰谷さんが示してくださっています。
『兎の眼』の原稿を父に送った時のことを、灰谷さんはこんなふうに記しています。
小宮山さんから、さっそく手紙がきた。
「・・・・ひょっとして、あなたはとんでもないというより仕方のないほどの、たいへんな仕事をしたのかもしれない」
と予言的なことがそこに書いてあった。
わたしにその意味をせんさくする余裕などあるほどもなく、ただただ、その手紙をにぎりしめ、呆然としていたのだった。
今、思うと、わたしはこのとき人生でいちばんしあわせだった。
(『飛ぶ教室』38号−特集子どもの本の出版 理論社の仕事 1991年刊)
コロナ禍の中で、ひとつひとつのいのちの大切さが見失われています。
『兎の眼』に込めた灰谷さんの思いを今こそ、今だからこそ私たちはあらためて受け止めなければ・・・・・、そう思っています。
2021.9.8 荒井 きぬ枝
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2021/9/1
「東京パラリンピック学校連携観戦」。
修学旅行に行くことさえできない状況の中で、子どもたちが動員されています。
実施する理由として、菅総理や小池都知事は、「共生社会に向けた教育的要素が大きい」とさかんに訴えています。
橋本聖子さんも同じように説明しています。
障害者の人たちががんばっている姿を子どもたちに見せて、共生社会の実現をめざしたい・・・・・・と。
絵本『はせがわくんきらいや』(長谷川集平著 1976年 すばる書店)は、初めて読んだ時からずっと私の心に住み続けています。
長谷川くんは森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者で、体が不自由です。
主人公の男の子は絵本の中でこう言っています。 先生が「長谷川くんからだ弱いから大事にしてあげてね」ゆうた。
ぼくはとんぼをとってあげた。
長谷川くん
「とんぼいらん」ゆうた。
「なんでや。」
「虫は、きらいや。」
「女みたいやなあ おまえ。」
そないゆうたら、長谷川くん泣いてしもた。
頭にきて「泣くな」ゆうて
なぐってやったんや。 先生のことば、
「からだが弱いから大事にしてあげてね」───、
大人は子どもに向かってよくこんなふうに言います。
“やさしさを装った差別”──と、私は思っています。
そして、それと同じことを感じてしまうのです。
反論しにくい言い方ですよね。
「子どもたちに観戦させるのは、共生社会に向けた教育的要素がある」───。
絵本の中の男の子は“かわいそう”という差別をしません。
だから「泣くな」となぐってしまったりするのです。
けれど、こんなふうに───
長谷川くん、泣かんときいな。
長谷川くん、わろおてみいな。
長谷川くん、もっと太りいな。
長谷川くん、ごはんぎょうさん食べようか。
長谷川くん、だいじょうぶか。
長谷川くん。
灰谷健次郎さんの『せんせいけらいになれ』(愛蔵版 1977年刊)を、また開いています。
高橋さとる君は幼稚園の時に、トラックにひかれて片足を切断してしまいました。
二年生の時に灰谷学級で書いた詩を、私は何度も何度も読み返しています。 ぼくの足
二年 高橋 さとる
(前略)
そいで ぼく びょういんで
ないてばっかししていた
たいいんしたら
テレビばっかしみていた
それから しばらくしてほねがのびた
ぼくはばんになって
心の中でおもった
「ほねくん、きみはぼくの足があるとおもって、のびてくれるんだね」
灰谷先生は、この詩のあとにこう記しています。
おとなのふちゅういから、たいへんな不幸をせおって、高橋さとるくんは入学してきました。身体けんさのとき、ぎ足を見せるのがいやだといって、どうしても、けんさをうけませんでした。
学校もいやがって、よく休みました。そのたびに、わたしは手紙をかいて、とどけました。
(きのう、さとるちゃんがやすんだので、せんせい、しんぱいしたで。さとるちゃんはぎ足がはずかしいんやね。でも、せんせいはさとるちゃんがすきやで。なんぼぎ足つけとってもすきやで。ぎ足をつけとうから、よその子より、もっともっとすきやで。つらいことがあったら、てがみにかきよ)
すると、返事がかえってきました。
(ぼく、どよう日にやすんだやろ。おしえたるで。らいおんみたいにないとってんで。そいで、うみにいってんで。ぼく、うみでかにとってんで。ちいさいかにがようけいいてんで。大きなかにもいてんで)
一人でカニと遊んでいるさとるくんの気持ちがわたしにはよくわかります。足のちぎれたカニがいたら、たいせつにいれものにいれたかもわかりません。
そして、うんどう会の日がやってきます。
(前略)
その日、うんどう会でした。
かけっこです。一年生は四列のたいけいになって入場してきました。これ以上、ふれないというほど、手をふって──そのなかに高橋さとるくんがいます。ちょっとてれた顔つきでわらっています。
ピストルがなりました。小さなうさぎのような子どもたちは、いっせいにかけ出しました。
さとるくんがかけています。もちろん、ひどいびっこでした。ぎ足がなります。
さとるくんの口から火のようにあつい息が、はあはあとはき出されます。
まっ赤な顔をして、さとるくんは走ります。みなゴールにかけこんだ、でも、さとるくんはやっと半分でした。
いつ、なきだして、やめるだろうと、みている人たちは、はらはらしていました。
しかし、さとるくんの目は、ただ、前にひろがる青い空をにらんでいるだけでした。
くやしいという気もちも、はずかしいという気もちも、なにもありません。さとるくんは、ただ、かけているのです。じぶんの力のありったけをだして、天にものぼるがごとくかけているのです
そのおもいぎ足をひきずって、ただ、かけているのです。もし、かみさまがあるのなら、いま、かけているさとるくんこそがかみさまなのでしょう。
えらい人たちがとってつけたように言う “共生” に腹が立つのです。
“共生” がその字のとおり “共に生きる” のであるとすれば、それは長谷川君と主人公の男の子です。高橋さとる君と灰谷先生です。
灰谷さん、そうですよね。
2021.9.1 荒井 きぬ枝
投稿者: エディターズミュージアム
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