新政権となり、異例の速さで選挙選に突入、“公約”という“ことば”だけが飛び交うなかで、何かが置き去りにされていると思えてならないのです。
子どもたちの心を受けとめていた灰谷先生という「コクバン」。
灰谷健次郎さんが亡くなられた一年後の十二月、ミュージアムでの講演会で父が語ったことを、信濃毎日新聞が次のように伝えています。(2007年12月17日付) (前略)
小宮山さんは、万引きをした八歳の少女の詩と灰谷さんの文章を収めた絵本「チューインガム一つ」から「わたしは どうして/あんなわるいことをしてんやろ」の一節などを朗読し、深く素直な後悔の言葉が連なるこの詩を「日本の宝物」と表現した。
教師をしていた灰谷さんと少女が、二人きりの教室で一緒に苦しんでこの詩が生まれた──と説明。「教師が子どもと苦しみを分かち合う世界を抜いてしまっては、教育の魂がなくなる」と指摘した。 (後略) 九十三歳になった時、父は「大勢の前での講演はこれで最後にしようね」───と。
その後はミュージアムを訪れてくださる何人かの方たちに囲まれて、楽しそうに語る日々が亡くなるまで続きました。
最後の講演会について記した文章が遺されていました。
「『きりん』がいちばんだいじだからね」
亡くなる間際の父のことばが甦ってきます。
最後の最後まで父は、灰谷先生の「コクバン」について語っていたのです。2021.10.27 荒井 きぬ枝
❈「詩のコクバン」は、昭和36(1961)年から昭和41(1966)年まで『きりん』に連載され、1967年2月『せんせいけらいになれ/詩のコクバン』として刊行されました。 忘れられない、あのひと言
子どもたちのコトバ 小宮山量平
「何しろ灰谷健次郎さんの玉手匣(ばこ)には、子どもたちのすばらしいコトバが、ぎっしりと詰まっているので、それを取り出されると、どんな講演者のコトバも霞んでしまう」と、笑いながら嘆くのは、凡そおもしろい話の名人であるはずの永六輔さんなのです。
ちょうど灰谷さんの二年目の命日のころには、わが千曲川の源流に近い佐久の東中学校への講演にでかけますので、そんな玉手匣の幾つかを作ったぼくは、彼の霊のお許しを得て、それら子どもたちの詩のコトバの幾つかを語り伝えてこようと、思っているのです。
1、小学二年 くぼた しんぺいくんの詩 せんせい/さるまわしのさるになって/みんなのまえでおしっこせい。 せんせい/土人になって/ぼくのけらいになれ。 そんでつーしんぼみんな5にせい。 この詩を読んで、ぼくはさっそく『せんせいけらいになれ』という本を作りました。 それが、灰谷さんとぼくとの最初の出会いとなったのです。 2、 小学一年 うらかわ ゆりえさんの詩 うちのおとうちゃんは/しんぶんよむとき/「しんぶん、あるいてこい」といいます。 たばこのむとき/「たばこ、ひとりであるいてこい」といいます。 そしたら/おかあちゃんが、とりにいきます。 この詩の生まれたころ、どこかのお家でも、こんな風景が見られましたので、ぼくは『お母さん』という本を作ったものです。けれども最近は、どこのお家でも、お母さんのほうがいばるようになっているようですね。 3、 小学三年 もり まさあきくんの詩 ぼくのおとうちゃんは/一日に一回は/おならを/こかはる。 一ばんこかはるのは日よう日です。 日よう日でも/三時ごろが一ばんです。 4、 小学三年 まえだ そういちくんの詩 おとうちゃんは/ねていても/おならこかはる。 おきていてもすぐ/こかはる。 よそへいって/おならこかはらへんか/しんぱいです。 と、こんなふうに、家族のやさしい目にみつめられているのですから、おとうさんはしあわせです。ぼくは『おとうさん』という本も、作らせてもらっているのです。 5、小学一年 もりた たいらくんの詩 さむらいはおしっこをしません。 うんこもしません。 四人しんで/三人のこりました。 子どもの目は秀れた写真機のように、家族や教室の中ばかりでなく、映画の世界なんかも、一しゅんにして正確にとらえるのです。 『七人の侍』という映画が大評判をとっていたころ、この詩を監督の黒沢明さんにお見せしたら「参ったなア!」と、額をたたいて嬉しそうに大笑いされたことが、今でも忘れられません。 そんな童心のおおらかさを忘れないために、ぼくのささやかなミュージアムには、次のような詩を掲げているのです。 6、小学一年 すぎやま ときおくんの詩 なまえわすれたら 「あそびましょ」 で いいでしょ。 もうじき93歳にもなるぼくの、恐らくは最後の講演を、これらの詩で飾らせてもらうつもりなのです。