昨日、5月12日の朝刊で早乙女勝元さんが亡くなられたことを知りました。
父の誕生日の朝です。
早乙女さんは90歳でいらしたのですね。
早乙女さんより16歳上の父は、生きていたらこの誕生日で106歳。
ずっとずっと昔の早乙女さんと父との出会いに今、思いをはせています。
『ゆびきり』は1961年に理論社から刊行されました。
表紙をめくると、当時29歳でいらした早乙女さんのさわやかな笑顔の写真が目に飛び込んできます。
“はじめに”と題して早乙女さんはこんなふうに記されていました。 こんにちわ、みなさん。
“ゆびきり”って、なんのことかしっていますか? 指を切ったのではありません。
小指と小指をあわせるゲンマンのことなんです。そうです。約束のしるしですね。
このものがたりの主人公、昌次君は、あちらこちらで、いろんな約束をするのですが、だれかさんと、ほんとうの──心からの“ゆびきり”をかわすのは、たった一回きりなのです。
ですから、“ゆびきり”ということばは、このものがたりのなかで、ただの一度しかつかわれていません。
では、昇次君は、だれと(いつ、どこで)どんな約束をしたのでしょう?
その約束は、まもられたでしょうか?
そんなことを、ちょっと頭のスミにおいて、読みはじめてください。
岩崎ちひろさんの美しいさしえが、すぐにみなさんを、下町のちいさな路地うらに、みちびいてくれるでしょう。
すこし昔のお話です。 奥付には
著者 早乙女勝元
発行者 小宮山量平 ────と。
早乙女さんと父との出会いの一冊です。
絵本『猫は生きている』が刊行されたのは1973年。
巻末には赤ちゃんを抱っこされている早乙女さんの写真が・・・・・・。
お父さんになられたのですね。
“作者のあとがき”です。 (前略)
私もこれまでに何冊か、東京大空襲のことを、子どもむけの本に書いてきました。『火の瞳』『ゆびきり』『おばけ煙突の歌』などが、それです。
また足で歩いて調べて書いたノンフィクション『東京大空襲』の一冊もあります。けれどもそれはどちらかといえば、小学校の上級生からを対象にしたものでした。
これではいけない。やはり、幼い子どもたちにも、あの戦争を知る上でのなんらかの手がかりがなくちゃ・・・・・と思い、私ははじめて、戦争をテーマにした絵本を考えはじめました。
この物語を書いているあいだ、終始、私の頭をはなれなかったのは、ベトナムの子どもたちのことです。ベトナムでは、いたいけな子どもたちが百万人は死んだろう、といわれています。そうしますと、戦争と平和は、まさしく現在の問題ではないでしょうか。
<ベトナムの子どもを支援する会>の画家、田島征三さんと、熱い思いをこめて完成したこの一冊の絵本が、戦争の本質を見きわめ、正しく継承しようとする教師や、母親、またこれからの世代に、なんらかのお役に立てばしあわせです。(後略) 奥付には
作者 早乙女勝元
画家 田島征三
発行者 小宮山量平 ────と。
子どもたちに“戦争”の悲惨さを伝えようとするそれぞれの思いが伝わってきます。
早乙女さんと、征三さんとそして父とが共に歩んできた道のりです。
“戦後創作児童文学”運動の担い手のおひとりでもいらした早乙女勝元さん。
同志でもある早乙女さんに贈った父のことばが遺されています。
(『早乙女勝元長編青春小説集全六巻』より) 早乙女さんの「やさしさ」 早乙女さん、あなたは日本のゴーリキーなんだ・・・・・ぼくがそう語りかけると、彼はまことに当惑した顔つきをする。世界的大作家とストレートに比べられたりしたら、誰だって困るのが当たり前だ。けれど、お世辞を言うわけではない。
ぼくらが身近にゴーリキー的な作家を求めたくなるとき、まず第一に思い浮かべてしまうのが、早乙女さんなのだ。革命前夜の重苦しい時代の下で、なんども挫折し、自殺さえ企て、絶望し、放浪し・・・・・そんな深い傷を、宗教や思想の光明なんぞによってではなく、ひたすら孤独な手さぐりでいやしてきた若き日のゴーリキー像を、ぼくは、早乙女さんとダブらせてしまう。
どうやら両者にとって、生きぬく上で何よりの知恵は、他人を傷つけず、どんな弱者に対しても、それ以上の弱者として対する「やさしさ」をつらぬくことであった───と、ぼくは思う。
(中略)
人間の高貴さを守る最高の武器こそ、この「やさしさ」なのだと、早乙女さんの作品は実証しているようだ。 “人間の高貴さを守る最高の武器こそ、「やさしさ」なのだ”────、
父のことばは、早乙女さんに贈られたことばであると同時に、今を生きる私たちへの警告でもあると思えるのです。
父がその生涯で最後の最後に書いた手紙は早乙女勝元さんにあてたものでした。
「この場所に置いておくのがふさわしいと思うので・・・・・」、そうおっしゃって、早乙女さんはこのミュージアムにその手紙を届けてくださいました。
早乙女さんに、ある思いを託した父の手紙は、こんなふうに綴られていました。 はつらつとした辰年の賀詞をありがとう存じました。私も八度目のえとを迎えたからには、もはや、百歳圏に突入した思いで、これ以上の加齢を予期することなく、ひたすら余生そのものの無重力性を若い人たちの活力のよみがえりに、と、工夫を重ねるつもりです。
差し当たって日本の学校という学校のすべてが就職の予備校化してしまった現状をかえりみ、ゴーリキーの《私の大学》を復活する思いです。私も、あなたも、それぞれ独学の畑で育ってきた道すじをかえりみると、何とも言えぬなつかしさをおぼえるのです。
どうか自分の足で立ち、自分の頭で考える、若者たちのよみがえりのために、手を差しのべて下さい! とんしゅ
2012.1.8 小宮山量平
早乙女勝元 様 2014年4月13日、「私の大学」の第一回目の講座がミュージアムで開かれました。
父の命日のその日、父の願いを聞き届けてくださった早乙女さんが、講師として来てくださったのです。
「平和への第一歩は学ぶこと」
「次の世代に平和でやさしい明日を手渡していきたい」
父と早乙女さんのことばを重ねながら、今起きている“戦争”を思い、“平和”を祈らずにはいられません。2022.5.13 荒井 きぬ枝
この国の子どもたちが
再び戦争に巻き込まれることがないように・・・・
そのために“東京大空襲”を
伝え続けてこられた早乙女さん。
色紙には願いが込められています。