エディターズ・ミュージアム「小宮山量平の編集室」での日々のできごとをお伝えするページです。
2015/2/4
1947年。私が生まれた年の4月に「季刊理論」が創刊されました。巻頭にかかげられた言葉は、 同胞(とも)よ 地わ 貧しい
われら わ ゆたかな 種を
まかなけれ ば ならない ーノヴァーリスー
(当時掲載されたまま)
理論社創業の場所は、“千代田区丸之内2丁目18番地 岸本ビル1階”となっていますが、「廊下の片隅に、ついたてを立てただけの場所だった」と父は語っていました。上田の母の実家である「鰻屋」に母と私をあずけて、父はひとりで上京していました。 2015.2.4 荒井 きぬ枝
−私はお前をえた−
1947.11.9 私が留守をしている間に、お前の名は「きぬ枝」ということに一決してしまった。私は、「マリ」と
いう名を送りたかったのだけれど。きぬ枝という名の古めかしい感覚が私に抵抗するのだ。しかし、お前のおばあさんやおじいさんが、皺よった笑顔で、お前の上に刻みつけようとする祝福を、私は、拒むべきだったろうか。ふるい時代の祝福も、それが祝福である限り、すべてうけとめるが良いのだ。それにしても、ちょっと割り切れない気持ち。1947.11.11
お前のお七夜ということで、芦田村のおばさん、望月のおばさん、それに近所のひと達・・・・・十何人のお客さまだ。お前をだいて、仏前・神前におじぎ。そうしながら、私はふっと涙ぐむ。ひとりの人間が生長する過程には、こんな素朴な祝福が、やはり何度となく積み重ねられているのだ。私たちは、ひとりの人間を、そういう祝福の累積として見ることを忘れがちだ。 人のいのちが大切だ・・・・・ということの内容は、ひとりの人間の中にも、じつにたくさんのひとびとの祝福がつみ重ねられているからだ、ということになるかも知れない。お前によって、今更のように、私はいのちの尊さと温かさを教えられる。
(日記の原文)
投稿者: エディターズミュージアム
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