「沖縄慰霊の日」───
何度もくり返し読んだ『太陽の子』(灰谷健次郎著、1978年理論社刊)の一節がしきりに思い 出されます。
キヨシ少年をかばって立ち上がったろくさんのことばです(以下本文より) 「あんたたちには、この子のかなしみがわからんのか。沖縄のかなしみがわからんのか」
ろくさんははじめて大声を出した。
「法の前に沖縄もくそもない。みんな平等だ!」(注・警察の男のことば)
「そうか、平等か。ほんとうに平等かね」
そのときはじめてろくさんの眼がぎらっと光った。怒りで手が震えていた。 そしてろくさんはほとんど根元からない左手をつき出します。(同じく本文より) 「ええかこの手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声がもれたら全滅だ、おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだ──わしたちを守りにきた兵隊がいったんだ、沖縄の子どもたちを守りにきた兵隊がそういったんだ。みんな死んで、その兵隊が生き残った。
・・・・・この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」
ふうちゃんの眼に涙があふれた。しかし、ぎゅっと唇をかんで、ふうちゃんは耐えた。 この作品が生まれてから40年。けれど今もなお沖縄の人々の悲しみ痛みは続いているのです。沖縄はまだ戦後を生きています。
その沖縄へ、一度だけ父と一緒に行ったことがあります。
渡嘉敷島に転居された灰谷さんが呼んでくださったのです。着いたその日に、父は私たち(母と夫と私)を摩文仁(まぶに)の丘に案内してくれました。父にとっては二度目だったと思います。
「北霊碑」の前でひとこと「私が送り出した兵隊たちがこの沖縄でたくさん死んでしまったんだよ」・・・・・そう言ったまま、長いことたたずんでいました。
その父の姿を今、思い浮かべています。 2017.6.28 荒井 きぬ枝
摩文仁の丘
(『昭和時代落穂拾い』より)
ふつうなら私のように思想的「前歴」のある者などは真っ先に前線の危地へと送りこんでしまうのが、当時の不文律であったようだ。ところが私ときたら、戦場へ飛ばされぬばかりか、むしろ日に日に急迫する兵隊教育にとって最適の教官でもあったのだろうか。絶え間なく召集されてくる初年兵たちを九回も教育した。次第に老兵化し、妻子持ちも多くなる「初年兵」たちが、三ヶ月毎に一人前の兵隊となって、やがて戦地へと送り込まれる。
──戦後三十年以上を経て、沖縄が観光地と化し、仕事の上の機会があっても、私の足は、そこへ向かうことはなかった。けれども四十年が経ち、真にやむを得ない所用のためついに赴くこととなった私は、ひとりひそかに「摩文仁の丘」を訪れた。
そこには各都道府県毎に哀悼の志を競うかのように個性的な碑が建てられているのだ。
その中でも一段と高く巨きいのが北海道の北霊碑である。それもそのはずだ。敗戦も間近にソ満国境から沖縄へと廻された北海道出身の兵士一万余を含めて最も多くの生命が、そこに虚しく散華している。
私はそのオベリスクを仰ぎながら、その石肌の粒子毎に、かりそめにも私が教え子と呼んだ兵士たちの魂魄のきらめきを感じないではいられなかった。───君らは死に、俺は生きてしまった!
・・・・・その呟きが、今も私にとっての太平洋戦争の重みである。
昭和二十年二月には硫黄島で次兄は玉砕していた。同じ年の七月十五日、敗戦を一ヶ月後にひかえての津軽海峡で、わが長兄の乗った連絡船は撃沈の運命を辿った。同じ日、私は帯広の師団司令部から釧路へ帰途の列車の中で、グラマン機の掃射を受けていた。それから正に一ヶ月後、私たちは敗戦を迎えた。

二十数年前、摩文仁の丘北霊碑の前で
母と夫と私